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歴史的

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大鏡《9》 朱雀天皇

さぼ郎

六十一代朱雀天皇

治十六年、女御二人、姫宮一人、承平五年比叡山の中堂やけたり

承平五年比叡山の中堂やけたり延暦4年(785)7月中旬、最澄は山林静寂の地をもとめて叡山に登り草庵に居住した。この草庵が「根本一乗止観院」と呼ばれ、後の根本中堂となる。元慶6年(882)に建て直し始め、仁和3年(887)に至って、造営は終了した。しかし、
承平5年(935)3月6日に中堂・前唐院、および官舎・私房のすべての41箇所が焼失した。尊像はすべて取り出している。

次のみかど、朱雀院天皇と申しき。これ醍醐の帝の第十一の皇子なり。御母、皇太后宮穏子と申しき。太政大臣基経のおとどの第四の女なり。

藤原穏子:889~954年。基経の娘。朱雀天皇の他に村上天皇を生んでいる。五条の后と呼ばれている。
五条后:809~871年。藤原順子。こちらは冬嗣の娘で、藤原高子と在原業平の恋を手助けしたことになっている。

このみかど、延長元年癸未七月四日に生れさせたまふ。同じ三年乙酉十月二十一日、東宮に立ちたまふ。御年三歳。同じ八年庚寅九月二十二日、位につかせたまふ。御年八歳。承平七年正月四日、御元服。御年十五。世を保たせたまふ事十六年。

延長元年:923年
承平七年:937年

*八幡の臨時の祭は、この御時よりあるぞかし。このみかど生れさせたまひては、御格子もまゐらず、夜昼火をともして、御帳の内にて、三つまでおほしたて奉らせたまひき。

八幡の臨時の祭:石清水八幡宮の臨時祭。国家的危機のときなどに実施された。
御格子もまゐらず:格子を上げることもできないくらい病弱であった。

北野におぢ申させたまひて、かくありしぞかし。このみかど生れおはしまさずは、藤氏の栄え、いとかうしもおはしまさざらまし。

北野におぢ申す:北野天満宮にお参りしてやっとこのようになれた
いとかうしもおはしまさざらまし:この帝が生まれなければ藤原氏が、このようにして栄えているはずもない

いみじきをりふし、生れさせたまへりしぞかし。位につかせたまひて、将門がみだれ出できて、御願にてとぞ聞えはべりし。

いみじきをりふし:このようにひどい時代に
平将門:生まれたのが884年とか889年、903年と諸説がある。940年に38歳で滅ぼされたということになっているが詳細は不明。

この臨時の祭に、その東遊の歌、貫之のぬしのよみたりし、

松もおひ またも苔むす いはしみづ ゆくすゑ遠く つかへまつらむ
「岩清水八幡宮の老松に苔がむすように、ずっとお仕えしていきます」と、このような意味であろうかと思う。

朱雀天皇は醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原基経の娘、中宮藤原穏子。穏子が生んだ第二皇子が夭折し、時平の孫の皇子が5歳で崩御したため、穏子は悪霊を恐れて、皇子が3歳になるまで几帳の中で育てた と書かれている。

935年に平将門が、翌年には藤原純友が乱を起こす。940年に将門を討ち、翌年に純友を打つことで乱を平定する。

富士山が噴火し、地震が起き、洪水が起きたりと災害も多かった。入内した女御も少なく子にも恵まれなかったため、弟に攘夷し村上天皇となる。

大鏡にもwikiにも、朱雀天皇に関する記載が異様に少ない。それぐらいエピソードに不足のある天皇であった。

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