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高麗神社

さぼ郎
高麗神社
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高麗神社。「高麗」は「コマ」と読むようです。埼玉県日高市にあります。

日高市

日高市は川越の西隣、狭山・飯能の北隣に位置します。きょうまで、埼玉に日高市という市があるのを知りませんでした。
埼玉県日高市の一部および飯能市の一部にあたる高麗郷および上総郷は716年武蔵国高麗郡が設置された地である。
668年に唐・新羅に滅ぼされ亡命して日本に居住していた高句麗からの帰化人を朝廷はこの地に移住させたのだそうです。
『日本書紀』の玄武若光と『続日本紀』の高麗若光が同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになる
とあり、「コマノジャッコウ」というヒトが高句麗の王族であったなら、話の辻褄が合うようです。

朝廷は「王(こにきし)」という姓を与えたとのこと。霊亀2年(716年)、武蔵国に東海道7ヶ国から1799人の高句麗人を移住させ、「高麗郡」を設置しているのだそうですが、その高麗郡」が、概ね、日高市一帯のエリアになるようです。

この「高麗郷」を統治したのが「高麗若光」というヒトだそうで、彼の死後、彼を大明神として祀ったのが「高麗神社」になるそうで、宮司は彼の子孫がなるということで現在は60代目だそうです。

中世の本を読んでいると、新羅、百済、高句麗、任那などの朝鮮半島の国名が出てきますが、特に「任那」は、日韓の政治問題に発展した経緯もあり、扱いがナーバスになっています。

朝鮮半島
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375年ころの朝鮮半島の様子で、左の地図が韓国の教科書で、右の地図が日本の教科書になるのだそうです。

つまり、韓国では「任那」の存在を認めていません。が、日本で720年に成立した『日本書紀』では、加羅と任那が併記されており、中国の史書では438年条には「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記されているようです。

1880年、吉林省の農民が発見した「広開土王碑」には、
●399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
●400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
●404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
などの記述があったようです。韓国では旧大日本帝国陸軍が改ざんしたと主張していたようですが、拓本を取った陸軍の砲兵中尉に、石碑を改ざんするだけの漢文力があったとも思われず、また、旧大日本帝国陸軍が拓本を取る前に中国側で取った拓本が発見されることで、石碑には手が加わっていないことが証明され、韓国側の批判は完全に否定されたようです。

※ 北朝鮮側の調査では改ざんは否定されています。

「騎馬民族が加羅を建国し、その集団が九州に定住した」という説もあるようですが、詳しいことはワタシには分かりません。

三国時代
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4世紀から7世紀ころにかけての朝鮮半島は、大きくは「高句麗」「百済」「新羅」に分かれていたようです。

1世紀から儒教が朝鮮半島の上流階級に広がり、後に儒教は仏教に入れ替わり、中国の影響を受けたようです。仏教は528年新羅の国教となり、新羅は唐と結んで(唐・新羅の同盟)、660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼす。

これによって三国時代は終わり、統一された新羅の時代がはじまり、滅ぼされた百済の王族は日本にのがれ、百済王(くだらのこにきし)の姓を賜わる。

細かいことには諸説があって、何かを言えば、政治問題になるという寸法ですので、それは置いといて、そんな事情から、埼玉県に高句麗から逃れてきた人々を受け入れたエリアがあるという次第です。

で、その新羅の統一も長くは続かず、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続くことになります。

その統一国家を「高麗」というのだそうです。

9月20日に天皇・皇后が私的に高麗神社へ訪問したとのニュースがあります。高句麗と言えば、今の北朝鮮になりますが、もちろん、政治的意図などは全くないわけですが、時代時代によって国や民族、また、その関係は変遷し様々な感情をもたらします。

倭国と百済、高句麗、新羅などが、対立したり協調したりしながら、相互に影響をおよぼすことで、宗教のみならず、文化が向上し確立していったことは事実です。

桓武天皇の母親は百済の人だそうです。そもそも、桓武は天皇になる流れにはいなかったようですが、藤原百川というヒトが暗躍することで、桓武の父である光仁が天皇になります。光仁天皇の即位は、彼が60歳を過ぎていたようです。

愛人・弓削道鏡に皇位を与えようとした天智系の孝謙(称徳)天皇の後に、天武系の光仁天皇が即位します。称徳(孝謙)天皇による皇族らの粛清を回避するために光仁天皇は凡庸暗愚を装ったとのこと。

高野新笠は、この光仁天皇の後宮(いわば側室)で、彼女は渡来人であったので、その当時の身分は高くなく、彼女が産んだ皇子(つまり後の桓武天皇)も皇族という扱いよりは官僚としての人生を歩むはずだったようですが、あれこれあって、桓武が天皇になります。

桓武天皇
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桓武天皇の治世はかなり積極的だったようですが、壮年になってから天皇に即位したこと。壮年になるまで官僚として教育を受けてきたことなどから、大きな影響あったようです。

なるべくして成るヒト」がいるかたわら「ひょんなことから成るヒト」もいるわけで、桓武天皇が登場することで、天武系の奈良を離れて明治まで京都が日本の首都になりました。

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