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あれこれ

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雪の首都

さぼ郎
2018年1月22日は、天気予報の通り、首都は大となりました。

雪の路地

一夜明けて、

浅草神社
浅草神社
五重塔
五重塔
池の鯉
池の鯉
大仏
ソフトクリームを舐めている

ま、こんな事になりました。1936年2月26日も、首都は大だったそうです。wikiによれば、1,483名の下士官を率いて青年将校が決起したと書かれています。

その下士官の一人となった人の孫の話を聞いたことがあります。命令どおりに動いたら結果として拘束され、牢獄で反省させられ、なにがなんだか分からなかったそうです。

決起した将校の目指したのが「天皇親政」だったそうです。この「天皇親政」を調べてみると、実は、思うほどに親政を行った天皇は多くありません。

2.26
wiki「2.26事件」にリンク ↑

まず、中世から(白河天皇から)天皇は早々に息子に譲位し院政をしき、治天の君になってマツリゴトを司ったわけです。天皇みずからがマツリゴトを司った主な天皇として、
天武天皇(日本、673年 - 686年)
桓武天皇(日本、781年 - 806年)
醍醐天皇 - 延喜の治(日本、897年 - 930年)
後三条天皇 (日本、1069年 - 1072年)
後醍醐天皇 - 建武の新政(1333年 - 1336年)
後三条天皇は白河天皇後父親です。

後醍醐天皇は、中継ぎの天皇であって、父親の後宇多天皇は後醍醐天皇は一代限りであって、後醍醐天皇の息子たちが天皇になることを認めないという遺言までしているそうです。

よって、後醍醐天皇が治天になることはありえないはずでしたが、現実には南朝として後村上天皇(息子)、長慶天皇(孫)、後亀山天皇(孫)と続き、後亀山天皇から北朝の後小松天皇に渡ることで、南北朝時代は収束しました。

後小松天皇は、後光厳天皇の系で、どういうわけか足利義満は崇光天皇の系に天皇を継がせなかったのですが、時代というものは面白いもので、南朝から北朝、北朝の後光厳系から崇光系の後花園天皇になることで、結局は現在に至っています。

南朝と北朝でどちらが正しいのかという論争が明治に起こります。というか、火を付けたのは「あの」アベトモの読売新聞で、それまでの教科書でも両朝は並立とされていたようですが、読売の社説により一気に政治問題化したようで、山縣有朋が南朝派であったこともあり、
最終的には『大日本史』の記述を根拠に、明治天皇の裁断で[要出典]三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされ
以降、戦前の皇国史観では足利尊氏が逆賊で、楠木正成や新田義貞が忠臣になるようです。

国家神道は、そのまま大東亜戦争の原理にもなりましたが、とはいえ、自由民権運動と議会の開催などが実現されてはいましたが、現実には薩長&官僚による「超然主義」であったわけで、戦争に負けたことで曲がりなりにも自由を謳歌できる時代にはなりました。

いまも自民党&官僚による「超然主義」であると言えなくもありませんが、政治家の低劣は目を覆うばかりですので、形は民主主義という茶番ですが、誰が政権を取った所で官僚主義を崩すのは容易なことではなく、その意味では社会主義国家であるとも言えなくはありません。独裁国家でないだけマシと言えます。

しかし、戦前のほうが圧倒的に優れていたのではないかと思えるのが「教育」です。高度成長期を支えた人々の多くは、戦前教育を受けていたように思います。また、決して礼賛するわけではありませんが、陸海軍が開発した兵器だって、戦前教育の中からイノベーションされてきたわけです。

フィンランドでは高校を卒業すると英語で日常会話はできるようです。アジア近隣でも、それなりの高等教育を受けると英語はある程度できるようになるようですが、日本だけは英語教育に関しては全くダメ(英語的痴呆状態)ですね。

その差は遺伝や民族であるはずもなく、とどのつまりは教育というシステム(教員を含める)にあることは間違いのないところだと思います。

タイタニック

タイタニック
ナショナルジオグラフィックにリンク ↑

タイタニック
YouTubeにリンク ↑

船の舳先は、本物のほうが曲線美があって優雅です。

タイタニックj
wiki「タイタニック」にリンク ↑



月

CANON SX620HS
光学100倍で撮影した三日月

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