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歴史的

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大鏡《5》 陽成天皇

さぼ郎

五十七代 陽成天皇

治八年、みこ九人、みな院にて後の御子なり。后たてられず。

次のみかど、陽成天皇と申しき。これ清和天皇の第一の皇子なり。御母皇太后宮高子と申しき。権中納言贈正一位太政大臣長良の御女なり。

藤原高子:基経と父母を同じくする兄妹で、藤原長良の子。長良は冬嗣の長男で弟には藤原良房がいる。

この帝、貞観十年(868)戊子十二月十六日、染殿の院にて生れたまへり。同じ十一年己丑二月一日、御年二つにて東宮に立たせたまひて、同じ十八年丙申十一月廿九日、位につかせたまふ。御年九歳。元慶六年壬寅正月二日、御元服。御年十五。世をしらせたまふ事八年、位をおりさせたまひて、二条院にぞおはしましける。

染殿:良房の邸宅の名前。良房を染殿大臣とも呼ぶし、清和天皇の后である藤原明子を染殿后とも呼ぶのは、『古今集』には、良房の『染殿の后の御前に花瓶に桜の花をささせ給へるを見て詠める』と題し
としふれば 齢は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思もなし
の一首がある。
ちなみに、藤原明子は、結果的として藤原氏に摂関政治をもたらす一つの歴史的要因となった。
世をしらせたまふ事:ようは、天皇でいた時期のこと
二条院:陽成上皇の御所。源氏物語の光源氏の二条院の場所ともされている。藤原道長以外にも二条院界隈には京都御所にも近く、様々な藤原一党が住んでいた。

さて六十五年なれば、八十一にてかくれたまふ。御法事の願文には、「釈迦如来の一年の兄」とは作られたるなり。智恵深く思ひ寄りけむと、いと興あれど、仏の御年よりは御年高しといふ心の、後世のせめとなむなれるとこそ、人の夢に見えけれ。

81歳まで長く生きたので、釈迦より1年年長の兄(釈迦は80歳で入滅した)だと法事の願文に書いたことが後世に責められることとなったと、ある人の夢に見えたということ

御母后、清和の帝よりは九年の御姉なり。廿七と申す年、陽成院をば生みたてまつりたまへるなり。元慶元年(877)丁酉正月に后に立ちたまふ。中宮と申す。御年三十六。同じ六年壬寅正月七日、皇后宮にあがりたまふ。御年四十一。この后の宮仕へしそめたまひけむやうこそ、おぼつかなけれ。

御母后:清和の后で陽成の母は藤原高子のこと。27歳で陽成を産み41歳で皇后宮になる。
おぼつかなけれ:入内したいきさつが今ひとつ不明である
とはいえ、基経の同母妹であるわけだかし、その義父は良房でもあり、そのへんは、その筋の働きがけに決まっている

いまだよごもりておはしける時、在中将業平のしのびて率てかくしたてまつりけるを、御兄の君達、基経の大臣、国経の大納言などの、若くおはしけむ程の事なりけむかし。取り返しにおはしたりける折、「つまもこもれり」とは詠みたまひたるは、この御事なれば、末の世に「神代の事も」とは申し出でたまひけるぞかし。

よごもりて:まだ、深窓で育っていた頃
業平:在原業平。平城天皇の孫。「伊勢物語」は在原業平の物語とされている
国経:年老いた国経の話として「時平大臣国経大納言妻取ること第八」として今昔物語に登場している。ようは、引き出物の代わりに若くて美しい妻を時平(基経の子)に取られる話。若くて美しい妻とは在原業平の孫娘。輪廻ですな。
つまもこもれり:「武蔵野は けふはな焼きそ 若草の つまもこもれり われもこもれり
とは、基経、国経が高子を取り返しに行ったときに業平が歌った和歌。野焼きの野に高子と業平がこもっているのだから今日は焼かないでという歌
神代の事も:「大原や 小塩の山も けふこそは 神代の事も 思ひいづらめ
大原よ。小塩山も今日は、ニニギノミコトを藤原氏の祖であるアメノコヤネノミコトが守護し奉った神代のことを思い出していることだろう。そのアメノコヤネノミコトの末裔たる御息所(天皇、東宮の后のこと)が、今日は参詣しているのだから。
ようは、業平と藤原高子が昔、恋仲であったことを思ひ出してくれていますよね という業平の呼びかけ

されば、世の常の御かしづきにては、御覧じそめられたまはずやおはしけむとぞおぼえはべる。若し離れぬ御中にて、染殿の宮明子に参りかよひなどしたまひけむ程のことにやとぞ、おしはかられはべる。

何を言わんとしているのかを推し量ると、「貴族の世の常の通りの輿入れではなかったようです」 あたりか。
離れぬ御中:親しくていつも一緒にいた あたりか
染殿の宮明子:この人は藤原良房と嵯峨天皇の皇女源潔姫との間に生まれた一人娘。高子は藤原相良の娘だから二人は従姉妹になる。で、藤原明子は文徳天皇の后だから、そこで清和天皇との縁ができたのではないかと 推し量っている

及ばぬ身に、かやうの事をさへ申すは、いとかたじけなきことなれど、これは皆人の知ろしめしたる事なれば。いかなる人か、このごろ古今、伊勢物語など覚えさせたまはぬは、あらむずる。

及ばぬ身:身分が到底及ばない ということ
いかなる人か:藤原高子がどのような人であったかは、古今和歌集や伊勢物語などを読めば、おおよそ見当がつくでしょう

見もせぬ人の恋しきは」など申すことも、この御なからひの程とこそは承はれ。末の世まで書きおきたまひけむ、おそろしきすきものなりかしな。

見ずもあらず 見もせぬ人の 恋しきは あやなくけふや ながめくらさむ
見なかったというわけではない
かといってはっきりと見えたということでもない
恋しい人のことをしかたなく今日一日
物思いにふけりながら無為に過ごしている
と、恋の歌まで詠んでいる。
御なからいひ:二人の関係(藤原高子と在原業平)が特に親密であったこと
末の世まで:後世に読まれることを知った上で、このような歌を書き残しているということは、歌の路もさることながら女の方も相当な好きものといえそうです。

いかに昔はなかなかにけしきある事も、をかしき事もありけるもの とて、うち笑ふけしき、ことになりて、いとやさしげなり。

昔はかつては、このように時代が鷹揚だった
といって笑っているのは「世継」である。現皇后との恋仲であった関係を和歌にして公表することを「おそろしきすきもの」と酷評しておきながら「なかなかにけしきある」と皮肉を言っている

二条の后と申すは、この高子御事なり。

二条の后:二条の后とは、藤原高子の事である

業平
  平城天皇孫、阿保親王第五子、母伊登内親王、桓武天皇第七皇女也、

元慶四年(880)庚子五月廿八日卒去、年五十六、于時従四位上右近中将美濃権守、自五条后者十六年弟也。嘉祥三年(850)庚午三月廿一日仁明天皇崩、年四十一。同四月五条后為皇太夫人、年四十二、今年業平年廿六也、自二条后者年十七年兄也、貞観八年(866)丙戌十二月為女御、年廿五、今年業平年四十二。今案於ニ条后者、女御以前密通之、於五条后者、仁明天皇崩之後密通歟

在原業平は、880年に56歳で死んでいる。850年に仁明天皇が41歳で崩御したとき、五条后は42歳。業平は26歳。二条后より17歳年長である。866年には二条后は25歳になり、業平は42歳。
この二条后が女御になる以前から業平と密通をしていた。
どうも、五条后とも、仁明天皇が崩御したあとで密通していたとも書かれている。

五条后とは、藤原冬嗣長女の順子のことになる。二条后は藤原長良の娘の高子。

藤原順子:大同4年(809)- 貞観13年(871)← 仁明天皇后
在原業平:天長2年(825)- 元慶4年(880)
藤原明子:天長6年(829)- 昌泰3年(900)←文徳天皇后
藤原高子:承和9年(842)- 延喜10年(910)← 清和天皇后

陽成天皇は生まれると東宮(皇太子)になり、9歳で清和天皇から譲位され、基経が摂政になっているが清和上皇が崩御したあたりから基経と関係が悪くなり陽成は満15歳で退位することになる。

陽成には同母弟(母が藤原高子)の貞保親王の他に基経の娘の藤原佳珠子が生んだ貞辰親王がいたため、基経と折り合いが特に悪くなった高子の系統を嫌って佳珠子から貞辰親王がいずれ即位するものと考えられていた。

とはいえ、陽成の後釜になったのは陽成の祖父であった仁明の弟の時康親王で、即位して光孝天皇となる。

光孝天皇は、そのあたりのこと(ゆくゆく、基経の孫である貞辰親王へのつなぎとされたと考えた)を慮って、自らの子女をすべて臣籍降下させた。

源定省(さだみ)となっていた光孝天皇の第7皇子が践祚して宇多天皇となる。これには基経と仲の良い異母妹藤原淑子の働きがあったとされている。

天皇が宇多になると、これはこれでいろいろなことが起きるが、それはまた、宇多天皇の項で触れましょう。

ともかく、藤原基経が天皇に退位を迫ったり、だれを次の天皇にするかに影響力を持つくらいのステータスを築き上げていたことがポイント。

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