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足利尊氏死す

さぼ郎
NHK大河の「太平記」、第49話「尊氏死す」を見終わりました。

尊氏が直義を毒殺します。直義は、尊氏に殺されることを察知して「来世は喧嘩をしない兄弟でありたい」といって毒を飲み干します。

足利直義
浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、翌正平7年/文和元年(1352年)2月26日に急死した。病死とされているが、『太平記』のみは尊氏による毒殺であると記している。直義が没した日は奇しくも、自身の宿敵であった高兄弟の一周忌に当たる。享年47。
後醍醐を裏切って持明院統に寝返ったのも、直義のススメによったわけであるけれど、後醍醐に対する寂念の思いと同時に「今生の果報をば、直義に給ばせ給ひて、直義安穏に守らせ給候べく候」などと、弟思いの気持ちも強くあった。

直義と尊氏が決裂する主たる原因は、尊氏が高師直・師泰に依存・放任しすぎたこと。同時に直義が、朝廷や寺社・公家への配慮が過ぎたことで恩賞を求める武家の離反を招いたこと。

軍隊で言えば、尊氏が軍令、直義が軍政を担って、高兄弟や桃井らを幕僚にして尊氏が統制すれば、徳川幕府のような確固たる幕府にすることができたかもしれませんが、1歳違いの兄弟であったことが、原因であったのかもしれません。

さらに、尊氏の庶子・直冬を養子に迎い入れたのはいいとしても、その直冬が尊氏へ敵対することを容認してしまったこと。その折には、直義にも桃井直常などの取り巻きの専横を許すようになる。

尊氏が直義に「桃井の独断と暴走を食い止めることができるのか」と諭す場面がありますが、腹心の部下の専横を指弾することができるかがリーダーの大きな資質になると思います。石原都知事と浜渦副都知事の関係などを見ても、翌分かる構図のように思えます。
伊勢から奈良へ入った北畠顕家の軍を奈良般若坂の戦いで破ったにも拘わらず、高師直にその軍功を無視されたので、対する足利直義党への旗幟を明らかにし、それに伴って直義の偏諱を賜って改名したといい、前述のように当時の史料で「ただつね」と読まれていたことはこのことを裏付けるものと言える。
この桃井と高兄弟の争いになっていくわけですが、それを西の九州・中国地方から直冬が挟撃する形で尊氏を追い詰め、高兄弟を騙し討ちをします。

尊氏と直冬が合戦をするたびに、武将たちはあっちに着いたり、こっちに着いたりで情勢判断で目まぐるしく移り変わります。つまりは、この時代の大名たちは、自分の判断で南朝に着いたり北朝に着いたり、尊氏派になったり直義派になったりしています。

尊氏が直義に、「武将たちが直義から離れるのがわからないか」というシーンで直義が「兄者には将軍という大きな看板がある」「この争乱の原因は兄者(尊氏)の優柔不断が招いた」と言いますが、それだけではなく、どちらが主流になるかを武将たちは見ているわけで、そのことは正義とか恩とか家系とかよりも「恩賞」であり、逆に負ける方に付けば、領地は取り上げられるという「獲得」か「喪失」かのどっちかでしか無かったわけです。

足利直義
wiki「足利直義」にリンク ↑

この肖像画は、「従来、源頼朝像とされてきたが、近年、直義像とする説が提示され有力となっている」とwikiに書かれています。

網野善彦さんの本に書かれていた「南北朝」を境に日本は2つの国のように激変をしたとのことですが、ひっきりなしに争乱が全国的にあった時代でもあり、庶民の価値観にも大きな影響があったわけです。

足利政権が末代(義昭)になるに及び戦国時代へと突入していきますが、戦国時代の争乱よりも凄まじい争乱が、アッチコッチで行われており、それも大名がアッチに着いたりコッチに着いたりで、世相を読むことにめまぐるしい時代であったと思います。

いまから600年も前のことでもあり、資料も決して多くはないと思いますが、庶民を起点に時の流れを考えてみると、とても大きな時代の「画期」が動いていたのだと新たに認識しました。

直義の死去が1352年3月12日。尊氏は1358年6月7日。直義を殺害してから6年生きるわけです。

直冬は、太平記の中では京都のまちなかでの争乱を思いとどまり、実の父(尊氏)、養親(直義)の思いも考えて、戦場から離脱し、直冬派が壊滅することになります。
直冬に子孫がいるかどうかは不明で、いたとしても歴史の表舞台に登場する事は無く、直冬の子孫は嘉吉の乱で断絶してしまった
ともあり、数奇な運命に翻弄され、ひっそりと歴史の中に埋没してしまっています。大河では宮沢りえちゃんと真田広之のたった一夜限りの契によって生を受け、応永7年3月11日(1400年4月5日)に没しているという説が、一応辻褄が合うようです。

そして、義満が生まれるのが1358年9月25日。義満の時代になって南北朝は一つの朝廷になり、足利時代のピークを迎えることとなります。

いま、天皇が生前退位することで、政治の場面ではいろいろな沙汰が有るようですが、南北朝の時代には天皇よりも上皇日からがあり、それも、天皇の系列の上皇に「治天の君」としての隠然たる力があったようですが、南北朝が収まる義満の時代になると、天皇の存在も変質しているように思います。

水戸学においても、北畠親房による神皇正統記においても、南朝を正統とし尊皇攘夷の中核的な考えになっているわけですが、後村上天皇-長慶天皇-後亀山天皇から北朝の後小松天皇に王権が移ることで、以降、北朝の系統から現在の天皇家に連なることとなっています。

こうした皇室の争乱も時代の「画期」に大きな影響を与えたのかは、想像を超えた話でもあり、意見の申しようもありません。

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