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伝記「長谷川泰」《2》

第2回

さぼ郎
江戸の洋学は種痘から始まります。

ジェンナーが編み出した牛痘が日本に伝わったのが1849(嘉永2)年のこと。この年に大阪では緒方洪庵が「除痘館」を開いているのだそうです。さすがに早い。

江戸では1858(安政5)年だそうで、関西と9年のギャップがありますが、これは漢方医の圧力だったようです。三井記念病院に行くと看板が立っていて、お玉ヶ池の種痘所のこととか、東京大学のことなどが書かれています。

種痘所は当初、岩本町のお玉ヶ池のそばに出来たそうですが、火事で全焼し、神田和泉町に立てられたようです。で、万延元(1860)年に種痘所は幕府の直轄となり、蘭学の教育もしていたため文久元(1861)年に「西洋医学所」と改称し、その2年後に「医学所」とした。

お玉ヶ池の種痘所の長だった大槻俊斎が、そのまま頭取を務めたため、東京大学医学部の初代総長とされている。この大槻俊斎が病に倒れたため幕府は大阪から緒方洪庵を呼び出し、2代目の頭取になる。

文久3(1863)年に緒方洪庵が死去すると3代目頭取に松本良順が就任する。当時はオランダ語を学ぶには医学しかなかったため、「医学所」にも医学を志すわけでもなく、単に蘭語を学ぶための生徒もいたため松本良順は「究理(物理)、舎密(化学)、薬剤、解剖、生理、病理、療養、内外科、各分課を定めて、午前一回、午後二回、順次その講義をなし、厳に他の書を読むことを禁じたり」という教育改革を行った。

慶応2(1866)年、長谷川泰は、佐藤尚中からの紹介状を持参して松本良順を尋ね、医学所」に入所している。慶応3年から4年になると幕府の力が急速に弱まり世の中が騒然としてくる。

医学所」では戦乱に備えて外科学、銃創論が大いに盛んになっていく。やおら戊辰戦争が始まると長谷川泰は郷里の長岡に帰り河井継之助の抜擢で長岡藩医に取り立てられ、北越戊辰戦争に巻き込まれていく。

石炭酸(フェノール)による消毒法は戊辰戦争の前年の慶応3(1867)年に英国のリスターが発見した技術でありまだ日本には伝わっていなかった。

泥沼での刀創は化膿や感染症になるため、治療は困難を極めた。

一旦は落ちた長岡城の奪還を企てた河井継之助であったが、奪還作戦において左足膝下部の骨折貫通銃創を負い応急処置しか出来なかったため、感染症を併発し会津領で待機していた松本良順に診てもらったが、左脚下肢の切断は不可能と診断され、やおら敗血症となり42歳で帰らぬ人となった。

長岡を攻めた新政府軍の指揮をしたのが山県有朋黒田清隆であった。

明治2(1872)年、佐倉順天堂時代の高弟、相良元貞の口添えで大学東校の教師として出発することとなる。

東京大学
東京大学は大学東校と大学南校によって作られる事となる。
昌平学校を改編し国学・漢学を講じる「本校」と、大学本校の南に所在していた旧開成学校は「大学南校」、東に所在していた医学校は「大学東校」と改称された。
つまり、東京大学は2つの学校を合体してできている。幕府の昌平校の流れをくんだ「本校」は、実質的に機能せず廃止された。
開成学校は、そもそもは、洋学研究の必要を痛感した江戸幕府は、従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充し、1855年(安政2年)、「洋学所」を開設したが、安政の大地震で全壊焼失したため、安政3(1856)年「蕃書調所」として九段下に新築したが、大老が井伊直弼になると洋学軽視により神田小川町の狭猥な場所に移されるも、文久2(1862)年に神田錦町の護持院ヶ原に移される。
護持院ヶ原」とは綱吉が建立した真言宗の大寺院(5万坪)であったが1717年の大火で消失したまま、江戸城北側に広がる火除地として野原になっていた。
蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に「洋書調所」と改称、翌文久3(1863)年、「開成所」と改称された。
明治10年に加賀藩邸跡地に大学南校と大学東校が合流して東京大学になる。
ちなみに、山本周五郎の「天地静大」の主人公、杉浦透も、この「蕃書調所」で洋学を学ぶことになっている。

相良元貞
元治元(1864)年、江戸遊学を命ぜられ、幕府の「医学所」(松本良順頭取)に入門し、蘭医学を学ぶ。
同年秋には、兄の知安が学んだ下総佐倉(現千葉県佐倉市)の 「順天堂塾」で、長崎で蘭医学を蘭医ポンペから学んで帰郷した佐藤尚中に師事し、蘭医学を学 ぶ。明治2(1869)年、東京下谷和泉橋(現神田和泉町)の旧藤堂屋敷に移転した「医学校」への勤務を命ぜられ、その後名称が大学東校と変わり、中助教兼大寮長に就任する。
この相良元貞が長谷川泰を大学東校の教員に呼んでくれることとなる。
明治4(1871)年にフンボルト大学(ベルリン大学)医学部へ入学。解剖学実習中に感染し肺炎となり、ライプチヒ大学に移り治療を受けながら学ぶ。
元貞を治療したのでベルツ教授で、兄の相良知安らの尽力により、日本医学を英国流からドイツ流に変え、ベルツを東京医学校医学教師として招聘。明治9(1876)年ドイツ医学の指導教師として、東京医学校教師として着任した。

出典)「済生学舎と長谷川泰」著:唐沢信康さん 他Wiki

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