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自分の能力のこと

さぼ郎
現在、読書は基本的に朝にしています。読んでいる本は「宇宙の本」「戦争の本」「組織の本」「癌の本」の4冊を、適宜輪転で読んでいますが、中間で「江戸時代の貨幣の本」「心がどこにあるかの本」を挟み込んで読んでいます。

それ以外に、図書館から「日経サイエンス」「Newsweek」を借りてきて読んでいるのと、小説としては二葉亭四迷の「浮雲」を読んでいます。

一見、すごそうに見えますが、実は一つの本をじっくり30分以上読むことはめったにありません。

そのことを今朝考えたのですが、やっと見えました。それは、脳の中の短期記憶のキャパが狭いので、すぐに容量をオーバーしてしまって読み続ける気力がなくなってくるのです。そこで、違う本に切り替えると、少し気分が変わってまた30分位は読むことができるようになります。

しかし、短期記憶を退屈させないようにしたとしても、それはどこかにあふれているだけのことで長期記憶には送り込むことはできないわけです。

このことは量の問題ではなく、脳のキャパの問題であって、とどのつまり勉強に向いていないということに尽きるわけです。

集中力がない上に、記憶のキャパが無いわけですから、単に気が散っていることを本の種類に振り分けているだけに過ぎません。

人間と他の動物との違いは2つに集約できるのだそうです。一つは「入れ子構造を持つシナリオの構築」ともう一つは「互いの心を結びつけたいという欲求」なのだそうです。

一つ目の「入れ子構造」ですが、これは昔に考えたことがあります。脳内の知識空間の中に「入れ子」で思索をしていき、記憶を呼び出し、途中まで考案し、あるいは他の考えもしながら夕ご飯のことを考えたり、明日の予定を考えたりできるのは、脳内の整理が整然としていることと、強力なインデックス機能があればこそだと思うのです。

知的空間の広さもさることながら、思考をスタックさせつつも、知的空間から昔の記憶であろうが、途中まで考えたことであろうが、それらを総合させて一つの結論を導き出せることが、「知性」の高さなのだと思うのです。

つまり、どの角度から考えても、自分にはソッチの方面では戦える基盤は脆弱です。

もう一つの「互いの心を結びつける」という希求は、どうかと言うと、これは単にコミュニケーションの話ではなく、歴史の側面も持ち、大きな言い方をすれば文化の話になるわけです。

知識や技術を言葉や文字にして伝達していく力のようなことで、単に誰彼構わずベラベラと益もないことを話すことではないと思うのです。

ということは、こちらの方面でも全く駄目と言わざるを得ません。

「軽率」とか「軽挙妄動」などと世間ではよく言いますが、とどのつまりは、思考力の不足に尽きると思います。複数のシナリオを考えて、どれが未来において一番いいかを考えるだけの力がないから、行動に移してしまうのだと、われを顧みればつくづく得心がいくことです。

とはいえ、言えることは、テレビを見なくすると結構な量の本が読めるということ。しかし、テレビを見ていることと、本を読んでいることの次元は、ワタシにとっては全く同じで、どちらも「単なる時間つぶし」でしかありません。

結局、凡夫にとっての人生とは、生まれたから死ぬまで生きることであって、生きている間は退屈しないように時間を潰すことと、人に迷惑をかけないことに心がけることと見つけたり。

「浮雲」を読むと明治初期から中期のことが何気なく普通に書かれています。夏目漱石も二葉亭四迷とたいして年齢が違いませんので、漱石が見ていた風景と重なります。

彼らの使う日本語にも、どこか共通するものがあるような気がします。

彼らが思索をし、見つめていた人生を文字に置き換えてとどめた小説を読めることは日本人の喜びですが、この「継承」できることが言葉、文字の強力な力であり、そこから派生する情緒が日本人にとっての宝なのだと思います。大いに享受しないと!

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