PAGE TOP

歴史的

印刷する

大鏡《4》 清和天皇

清和天皇

さぼ郎

五十六代 清和天皇

冶十八年、女御十三人、みこ十八人、姓を賜ふ四人あり。

次のみかど清和天皇と申しけり。文徳天皇の第四の皇子(諱は惟仁)なり。御母は皇太后宮明子と申しき。太政大臣良房のおとどの御女なり。このみかどは嘉祥三年(850)庚午三月廿五日、母かたの御祖父、太政大臣の小一条の家にて、父みかどの位につかせたまへる、五日といふ日、生れたまへりけむこそ、いかに折さへ花やかにめでたかりけむとおぼえはべれ。
明子:藤原良房の娘。母は、嵯峨天皇の皇女源潔姫。
良房は嵯峨天皇に寵愛され、皇女であった源潔姫を臣籍に降下させて嫁がせた。兄の源信の戸籍に入る。源信は応天門の変で伴氏によって排斥されかかった人物。藤原良房は皇女を正妻に持ったため妻は潔姫一人であった。潔姫は明子一人しか産まなかったため良房は兄の子の基経を養子に迎える。
潔姫は、臣下の妻となった初めての皇女」ということでもあり、潔姫が生んだ惟仁が清和天皇に即位したことで、良房は臣籍から初めて摂政となり、藤原栄華の基礎を作ることとなる。
年経れば 齢は老いぬ しかはあれど 花 をし見れば 物思ひもなし
この歌は良房が明子を詠んでいる。桜花のように美しい娘であったようだ。この歌を使って後に清少納言が、定子から色紙を渡されて古い歌をすぐに書きなさいと言われて
年経れば 齢は老いぬ しかはあれど 君 をし見れば 物思ひもなし
とっさに「」を「」に読み替えて書いている。そのまま書けば、清少納言が良房の立場から書いていることとなり不遜なことになってしまうが、定子を「」と見立て、それを「」としているところが清少納言の力。
小一条の家:注釈によると忠平のあたりで説明があるようなので、詳細は後に譲る。帝にとっての「祖父」といい「太政大臣」というと良房になる。
五日という日:父(つまり文徳天皇)が天皇の即位した五日目に良房の家で生まれたということ
このみかどは、御心いつくしく、御かたちめでた<ぞおはしましける。惟喬の親王の東宮あらそひしたまひけむも、この御事とこそおぼゆれ。
惟喬親王:文徳天皇の第一皇子
文徳天皇は、せめて惟仁親王が然るべき年齢になるまでの間だけでも天皇にさせてやりたいと希望したが、惟喬親王の母の出が、良房の娘である藤原明子であることとに比べると差し障りがあると、源信が進言してとどめた。源信自体も明子の兄であり、惟仁親王の叔父だから進言としては、そのようなものであるのも仕方がない
このことは100年後に、道長が同じようなことをしている
これについては、おそらくいずれ触れることとなる
やがて生れたまふ年の十一月廿五日戊戌、東宮に立ちたまひて、天安二年(858)戊寅八月廿七日、御年九つにて位につかせたまふ。貞観六年(864)正月一日戊子、御元服。御年十五なり。世をたもたせたまふ事十八年。同じ十八年十一月廿九日、染殿の院にておりさせたまふ。
生まれた年に皇太子になり9歳で天皇。15歳で元服し30歳で譲位、翌年死去。
元慶三年五月八日、御出家、水尾の帝と申す。この御末ぞかし、今の世に源氏の武者の族は。それもおほやけの御かためとこそはなるめれ。
源氏の武者は、この天皇の末裔であり、朝廷の守護をすることとなった
御母廿三にて、このみかどを生みたてまつりたまへり。貞観六年(864)甲申正月七日、皇后宮にあがりゐたまふ。后の位にて四十一年おはします。染殿の后と申す。
染殿:藤原良房の館。今の仙洞御所の北。
その御時の護持僧は、智証大師におはします。天安二年(858)にぞ、唐より帰りたまふ。

此御時、大安寺法師行教、八幡大菩薩をいのりこめて、男山の石清水の宮にうつし奉る。
天安2年(858年)真雅の推挙により、藤原良房の外孫惟仁親王(のちの清和天皇)の即位を祈祷するため、九州の宇佐八幡宮へ派遣されることとなった。しかし、親王がまもなく即位したことから、翌貞観元年(859年)改めて天皇護持のため宇佐八幡宮に90日間参篭した。このとき神託を受け、翌貞観2年(860年)宇佐八幡宮から山城国男山の護国寺に八幡大菩薩を勧請して石清水八幡宮を創建した。


文徳天皇が崩御し、兄が3人いたにもかかわらず母の血統が藤原につながっていたため、9歳で天皇に践祚される。

清和天皇によっての一大事は「応天門の変」になる。この変において伴善男親子が失脚し、清和天皇は藤原良房を摂政とすることで藤原一族の基盤が盤石になる。

img01

27歳で9歳の第一皇子である貞明親王に譲位し、貞明親王が陽成天皇になる。

上皇崩御の日に基経が摂政に任命される。

清和の第6皇子である貞純親王の子の経基、経生王が友に源姓を与えられて臣籍降下したことから清和源氏の祖となる。この系統から源頼朝や足利尊氏が出る。

違うとする説もあるが「大鏡」では武家源氏を清和天皇から始まるとしていることもあって、主流の考え方になっている。

まえにもふれていることであるけれど、清和天皇の女御で皇太后は藤原高子で、この高子と基経が相当な犬猿関係であり、高子の子の陽成天皇を退位させて陽成の子ではい、文徳天皇の弟を天皇にするという事態に発展する。

この辺の事情は、「大鏡」が先に進めばつまびらかになっていくと思われる。

キーワード