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取り組み

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大阪市内の駅の椅子

さぼ郎
用事があって大阪に行ってきました。駅のホームに置かれている椅子の向きが進行方向に平行に置かれています。

おもしろいと思って調べたら「新大阪駅ホームのベンチ なぜ「向き」が線路と垂直なのか」という記事があって、ようは酔っぱらいの転落事故を防ぐためのようです。

電車に乗る時の注意は、車両の真ん中あたりに女性専用車両があって、東京のように時間制ではなく終日ですから、うっかり乗らないようにしないといけません。

それと、よく言われるエレベータの左乗りです。

社内で観察すると、女性も男性も、人相が若干違うような気がしますが、気のせいかもしれません。

しかし、マイクロソフトのIMEもグーグルの漢字変換も、これでITのトップ企業なのかと思うほどにひどいものです。

「きのせいかもしれません」として変換すると「木のせいかもしれません」とでました。「木のせい」である確率と「気のせい」である確率を考えればAIなんて使わなくてもわかりそうなものだと思います。

ニュースの記事タイトルをざっと眺めてみても、ほとんど気になる記事がありません。

英議会、内閣不信任案否決 メイ氏続投」、一体何がしたいのか全くわかりません。イギリスに限らずヨーロッパで起きていることは単なるポピュリズムであって、右傾化とか全体主義とかではなく、もっと程度が低いもののような気がします。

端的な例がアメリカです。日本も似たようなものですが、教育水準のせいなのか社会水準のせいなのか、さほどに程度が低くないように思います。

日本では程度が低いのは「野党」です。「野田前首相が新会派 玄葉元外相ら7人で」だそうですが、政権を取りに行くという真実味が感じられません。政権を運営するということは、自らの偏差値程度では無理だと骨身に染みているのでしょう。

しかし、そんな野党なら日本の政治にとって不要な存在です。そもそも政権を投げ出した時点で政治家をやめるべきだった面々が未だに居座っていることのほうが恥知らずなことで、政治家としていかがなものかと思ってしまいます。

というようなことで、今年は、なんとなくニュースを読むのではなく、知っても仕方のないことには興味を持たないことを実践していこうと思っています。

興味を持ってニュース記事を読んでも、即座に忘れてしまいます。だから、興味のある記事は、なんとなく読むのではなく、読むべくして何回も理解するまで読む代わりに芸能や国際関係、政治などには興味を持たないことだと決めました。

Newsweekを図書館から借りてきて読んでいますが、昨日読んだ記事を今朝には忘れています。ひどいものです。

世界で起きていることは様々ですが、日本での報道はとても狭い範囲のことしか伝わりません。どういう観点で取捨選択しているのかは不明です。

ちょうどヴィヴァルディというと「四季」のCDばかりを買い集めるような、単なる短慮なのか、はたまた、あまねく国民に知らしめたくないく、国家的に情報を操作しているのかは不明です。

ロシアの極東地域に中国人が100万人以上が住んでいるそうです。中国人に言わせると、「極東は中国の領土だった」とのことで「強大になった中国はロシアから極東を取り戻すべきだ」という強硬論もあるようです。

「中国のカショギ」としてルー・コアンという中国出身のカメラマンが新疆ウィグル自治区に向かって身柄を拘束されたのだそうです。彼は中国でエイズが流行した時、政府が貧困者に売血を促したことが原因であるとの写真を公表した恨みからの報復のようです。

ルワンダでは時刻の医療産業を支えるためにアメリカからの古着に関税を引き上げたそうです。その報復にアメリカはアフリカ成長機会法からルワンダを外したのだそうです。アフリカ成長機会法というのは、輸入関税を免除してアフリカの産業を育成しようという法律です。

ルソーには「一般意志」という考えがあるとか。「一般意志」とは、国家の存在目的から見て正しいと理性的に判断できる目標を実現しようとする人民の意思を言うそうです。となると、公共性のないわがままな意見は封殺するということに繋がり「恐怖政治」になります。戦前の日本がほぼ、その様になっていました。「恐れ多くも」というと、みんなで起立して直立不動になる映画のシーンがあります。
で、青山に児童相談所が来ると青山のブランド価値が下がると言って顰蹙を買っていたセレブがいましたが、では、沖縄の辺野古の基地が「来るな」ということと、どのような違いがあるのかという問いかけがあります。

何かを学ぶということと、自分の関わりは何なのだろうという素朴な疑問がいつもあります。学ぶことは「より良い自分」になるためでないとしたら、なんのため?

知識が増えると何が変わるの?

「学ぶ」ことが自分の幸福に直結していなければ、およそ学ぶこと、知ることには意味も価値も無いように思います。「学ぶ」ことで価値観の多様性が増すとか、感受性が豊かになるなどの自己の変化を伴わななければ、単に忘却していくだけで無駄な努力でしかありません。

「学ぶ」こととは、単なる悪あがきと見つけたり。

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