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頓活

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大鏡《10》 村上天皇

さぼ郎

六十二代村上天皇

治二十一年、女御、更衣十人、みこ十九人。

次の帝、村上天皇と申しき。これ醍醐のみかどの御十四の皇子なり。御母、朱雀院の同じ腹におはします。このみかど、延長四年丙戌六月二日、桂芳坊にて生れさせたまふ。天慶三年庚子二月十五日御元服。御年十五。同七年甲辰四月二十日、東宮に立たせたまふ。御年十九。同じ九年丙午四月十三日、位につかせたまふ。御年二十一。世をしらせたまふ事二十一年。

村上天皇は醍醐天皇の14番目(wikiでは14弁目が朱雀天皇で村上天皇は16番目としも書かれている)の皇子で、朱雀天皇と母は同じ藤原穏子。要するに兄弟ということ。そして、重要なことは朱雀天皇も村上天皇も、母が藤原基経の娘であったということで別格の扱いを受けていた。

御母后、延喜三年癸亥、前坊生れさせたまふ。御年十九。同二十年庚辰、女御の宜旨下りたまふ。御年三十六。同じ二十三年癸未、朱雀院生れさせたまふ。同四月五日、后の宣旨かうぶらせたまふ。御年三十九。やがて、みかど(朱雀)生みたてまつりたまふ同じ月に、后にも立たせたまひけるにや。四十二にて村上は生れさせたまへり。

藤原穏子は19歳で「前坊」を生んだとのこと。ここでいう「前坊」とは、保明親王のことと思われる。36歳で女御になり、39歳で朱雀院を生み42歳で村上天皇を生んだとしている。

后に立たせたまふ日は、前坊の御事を、宮の内ゆゆしがりて、申し出づる人もなかりけるに、かの御めのと子に大輔の君といひける女房の、かく、よみて出だしたりける

穏子が皇后になった時、宮中の者たちは保明親王が亡くなった(21歳)ことを恐れ多いことだとして話題にする者もいなかったが、親王の乳母であった大輔の君という女房が和歌を詠んだ。

わびぬれば 今はとものを 思へども こころに似ぬは なみだなりけり

つらいことなので、「今は(悲しまないでおこう)」と思うのだけれど、自分の意思に沿わないのは、涙なのである。

又御法事はてて、人々まかり出づる日も、かくこそはよまれたりけれ、

いまはとて み山をいづる ほととぎす いづれの里に なかむとすらむ

法事もすみ、これまでということで法事をした山から帰ってくるときに、ホトトギスが鳴いたが、わたしはどの山に行ってなけばいのかしら

五月の事にはべりけり。げにいかにと覚ゆるふしぶし、末の世まで伝はるばかりの事いひおく人、優にはべりかしな。

5月のことだったのでホトトギスを歌に詠み込んでいるけれど、いかにもうまいものだと感心するものだ。後の世まで伝えられるような歌を読む人は実に見事なものだ。

さて先の東宮(保明)におくれ奉りて、限りなく歎かせたまふ同じ年、朱雀院生れたまひ、われ后に立たせたまひけむこそ、さまざま御なげき御よろこび、かきまぜたる心ちつかうまつれ。世の、大后とこれ(穏子)を申す。

先の東宮を送り出して階斬りなく悲しんだ同じ年に、朱雀院が生まれ后に立たれたことを考えると、様々な嘆きや喜びが入り混じる気がします。この方を「大后(おおきさき)」と申し上げます。

不思議なことに、村上天皇のことより、母である藤原穏子のことと、朱雀、村上の兄である保明皇太子の死について重点を置いて書かれている。

藤原忠平が関白であったが、忠平の死後、関白をおかず親政をした。平将門、藤原純友の乱を平定したことで財政が逼迫したため倹約をした。

和歌に通じ、琴や琵琶もこなしたようで、平安文化を開花させた天皇として知られ「天暦の治」として名を残している。

関白を置かなかったが実際には忠平の息子の藤原実頼、師輔の兄弟が外戚政治の基盤を固めることで公正な政治ができなくなっていく。

師輔の子に兼家がいて、その子に道隆や道長がいる。

村上天皇と藤原安子から冷泉天皇と円融天皇の系統ができるが、円融系の天皇として一条天皇が崩御すると冷泉系の三条が天皇になるが、眼病を患い藤原道長が退位をせまり、三条の子・敦明親王を後一条天皇の東宮にすることで三条が退位する。

三条が崩御すると道長は敦明親王に東宮を辞退させることで両統迭立が終了するが、三条天皇の内親王が後三条天皇の母として以降の皇統につながっていく。

村上天皇のエピソードとして有名な「鶯宿梅」の話がある。

かいつまむと内裏にあった梅の木が枯れてしまい村上天皇がかわりの梅の木を探すように命じると、立派な梅の木が届く。その梅の木に女文字で短冊がかけられている。

勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問はば いかが答へむ

天皇の命令では仕方がないが住み慣れた鶯が来年の春に戻ってきて宿とする梅の木がないと言われたらなんと答えよう

村上天皇が、その短冊を書いた女性を探したら紀貫之の娘であったという話。

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