PAGE TOP

をちこち

印刷する

春の写真

さぼ郎
のやよいの あけぼのに
四方の山べを 見わたせば
盛りかも しら雲の
かからぬ峰こそ なかりけれ

花たちばなも 匂うなり
軒のあやめも 薫るなり
夕暮さまの さみだれに
ほととぎす 名乗るなり

秋の初めに なりぬれば
ことしも半ばは 過ぎにけり
わがよ更けゆく 影の
かたぶく見るこそ あわれなれ

冬の夜寒の 朝ぼらけ
ちぎりし山路は ふかし
心のあとは つかねども
思いやるこそ あわれなれ

慈円(1155~1225)の今様です。1200年に生まれた道元は、この今様を頭において和歌を作っているのだろうと思います。

は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり

は花ですよね。

花

花

花

花

花

花

花

つつじ
根津神社のツツジ

鳥居

花

すずらん

花

のやよいの あけぼのに」というようなら、慈円は「曙派」ですね。道元は「宵派」だそうです。

自分の能力を外に向けて立身出世を望むことに全力を上げることで自分自身が変質し変容してしまうことに気づかない。自分自身のもつ光明は、自分自身を省みることに照らすべきである。

回向返照の退歩を学ぶべし。
自然に心身脱落して本来の面目現前せん

は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり」という歌には「本来の面目を詠ず」と詞書されている。

万物為己、同根一体

自己そのものが自然と一体になり同化することで、自然に対して身心脱落して本来の面目が現前する。

これって、莊子の「持ち前に適う」生き方にも通じますが、もっと、自然との一体を求めている分、厳しい生き方なのかも知れません。

かたや、スピーカーに話しかければ音楽がなったり、テレビがかかったり、ロボット型の掃除機が掃除をしてくれます。

でも、自然との一体からの対極でしかなく、なんだか「欲ボケ」の極みを感じてしまいます。必要か不必要かの尺度で考えると、テレビ、パソコン、インターネット、携帯電話でさえ不必要な気がします。

花もみぢ冬の白雪見しことも思へばくやし色にめでけり

花や紅葉、雪景色の美しさに囚われている限り、「色を愛でている」と自らを律しているのは、自然の摂理とは単に美しさだけではないく五欲からの離脱をしてこそ、自然との一体感を味わえると示唆しています。

AIとかディープラーニングとかで、いずれは平安の歌人を超える和歌も作れるようになるかも知れませんが、それって、何の価値もないことじゃないですか。

権力」などは、五欲の極みのようなもので、あれだけ嘘八百つきまくり、恥も夫婦してかきまくっても、まだ、しがみついている姿を見ると、まさに「欲ボケ」って凄いもんだと感心すると同時に「もののあはれ」を感じてしまいます。

認知機能に狂いが生じているとしか思えません。朝鮮半島の北側にいる首領も、アメリカ大陸の北側にいる首領も、思考の基本構造は同じじゃないでしょうか。おもしろいものです。

キーワード