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歴史的

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大鏡《3》 文徳天皇

文徳天皇

さぼ郎

五十五代 文徳天皇

天安二年(858)戊寅八月廿七日崩、年三十二。九月六日、葬田邑山陵 号二田邑天皇一。女御六人、みこ廿九人。拾四人は姓を賜ふ。此の御時、東大寺の大仏のみぐし、そゞろに地に落ちぬ。
田邑山陵(たむらやまのみささぎ):太秦にある
そゞろ:これといった理由もなしに

文徳天皇と申しけるみかどは、仁明天皇の御第一の皇子なり。御母は太皇太后宮藤原順子と申しき。その后左大臣贈正一位太政大臣冬嗣のおとどの御女なり。
文徳天皇の母は、藤原冬嗣の娘の「順子」といった
このみかど、天長四年(827)丁未八月に生れたまひて、御心あきらかに、よく人をしろしめせり。
あきらか:聡明
しろしめす:統治する
承和九年(842)壬戌二月廿六日に御元服、同じき八月四日東宮にたたせたまふ。御年十六*嘉祥三年(850)庚午三月廿一日に位に即かせたまふ。御年廿四。さて世をたもたせたまふ事八年。
*仁明天皇もとおはする東宮をとりて、このみかどを承和九年八月四日東宮になし奉らせ給へる也。いかにやすからずおぼしけんとこそおぼえ侍れ。
もとおはする東宮:淳和天皇の次男である恒貞親王が、嵯峨上皇の叡慮により立太子していたが、嵯峨上皇崩御後(承和9年)に発生した「承和の変」により廃太子される。
承和の変(842):結論から言うと、藤原冬嗣の次男・良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子の信任を得て台頭し、妹・順子を仁明の后にし、生まれたのが道康親王(後の文徳天皇)であった。そこで、嵯峨の弟の淳和の恒貞親王が立太子しているのを排斥するために仕組んだ事件。この変により、藤原北家は文徳が天皇になることで、
良房の望みどおり道康親王が皇太子に立てられたばかりでなく、名族伴氏(大伴氏)と橘氏に打撃を与え、また同じ藤原氏の競争相手であった藤原愛発、藤原吉野をも失脚させたとされている。承和の変の意味は、桓武天皇の遺志に遠因をもつ、嵯峨、淳和による兄弟王朝の迭立を解消し、嵯峨-仁明-文徳の直系王統を成立させたという点も挙げられる。また良房は、この事件を機にその権力を確立し昇進を重ね、遂に人臣最初の摂政・太政大臣までのぼり、藤原氏繁栄の基礎を築いた。(wiki)
御母后の御年十九にてぞ、このみかどを生みたてまつりたまふ。嘉祥三年(850)四月に后の宮に立たせたまふ。御年四十二。斉衡元年(854)甲戌の年皇后宮にあがりゐたまふ。貞観三年(861)辛巳二月廿九日御出家して、灌頂などせさせたまへり。同じき六年(864)甲申正月七日、皇太后宮にあがりゐたまふ。これを五条の后と申す。
灌頂:仏教の儀式
五条の后:藤原冬嗣の長女、藤原順子。仁明天皇の后で文徳天皇の母。
伊勢物語に、業平の中将「よひよひごとにうちもねななむ」と詠みたまひけるは、この宮の御事なり**「春や昔の」なども。
よひよひごとにうちもねななむ:
人知れぬわが通ひ路の関守はよひよひごとにうちもねななむ
「こっそりと人に知られないように通う通路で見張りをしている番人は夜毎に家の中で寝てほしいものだ」
唐突にこの話が出てくると、在原業平が五条の后へ夜這いをしていたかのように考えらるが、以下の注意書きがある。

**いかなる事にか、二条の后にかよひ申されけるあひだの事とぞうけ給りおよぶなる。はるやむかしのなども。五条の后の御いへと侍るは、わかぬ御中にて、そのみやにやしなはれ給へれば、おなじところにおはしけるにや。
ようは在原業平が夜這いをしていたのは、「二条の后」であって、五条の后の家で養われていた。
二条の后:藤原高子。父は藤原長良。良房の弟。後、清和天皇の女御となり、陽成天皇を生む。長良の死後、後ろ盾を失うが同母弟に基経がおり、基経は良房が養子にしていた関係から清和天皇の女御になったと思われるが、どういうわけか基経と高子の折り合いは悪く、結局は、基経により高子・陽成天皇を排斥するに至る。
陽成が退位しても弟の貞保親王が天皇に選ばれず、文徳の弟の光孝が天皇になり、光孝の次として臣籍降下していた源定省を宇多天皇とするぐらい、基経と高子の関係が悪かった。
その高子と在原業平が恋仲のときの和歌
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして

漢文が入る

承平元年(938)9月4日、参議実頼朝臣が来て古事に及んで談話した。誰と談話したかというと、重明親王ということらしい。重明親王醍醐天皇の第四皇子で延喜6年(906)の生まれ。実頼は昌泰3年(900)だから、承平元年において、実頼が38歳で重明親王が32歳ということになる。

詳しい内容は不明であるが、文徳天皇は最愛の惟喬親王に帝位を継がせたがっていたが、第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を立てることとなり、東宮にしてあった。

これは、惟喬親王の母が紀氏の出で、惟仁親王良房の娘・明子の子であったことによる。

のちに、一条天皇の皇太子を巡る敦康親王(藤原定子の子)と敦成親王(藤原彰子の子)で後の後一条天皇のときの確執があった際、惟喬敦康の境遇が類似していると是非の議論になったというが、これはちょっと違っていて、敦康の祖父は藤原道隆で生存中は氏の長者であったものの、すでに亡くなっていて、敦成の祖父が大鏡主人公の藤原道長であった故のこと。

ここで、応天門の火事のことが話題になる。

藤原冬嗣の子はwikiによると「長良、良房、良方、良輔、順子(仁明天皇の皇后)、良相、良門、良仁、良世、古子」となっている。北家の主流は良房の系統になるものの、今時点では割拠していた。

で、伴善男は左大臣源信と不仲であり失脚を企んで左大臣源信を陥れることで右大臣良相を左大臣にし、空いた右大臣に自分がなろうということで、応天門を放火し、それを源信の仕業として右大臣良相に告発したことで良相は源信を捕縛しようとするものの、そのことを聞きつけた藤原基経が、父・太政大臣藤原良房に報告し、良房清和天皇に奏上して源信を弁護した。

そうこうするうちに、放火のあったときに伴親子と従者を見たとする訴えがあり、取り調べをすすめるうちに伴親子が真犯人であることが判明し、流罪となる。

後、左大臣源信と右大臣藤原良相が急死することで藤原良房が朝廷の全権を担うこととなったが、一説では藤原基経良房が仕組んで、大伴氏と紀氏を追い落としたのではないかとする説と、伴善男の息子が独断でやったことに父・善男が連座したという説がある。

古今和歌集第十五曰

五条のきさいの宮のにしのたいにすみける人に、ほいにはあらで物いひわたりけるを、む月の十日あまりばかりになん、ほかへかくれにける。あり所は聞けれどえものもいはでまたのとしの春梅の花ざかりに、月のおもしろかりける夜、こぞをこひて、かのにしのたいにいきて、月のかたぶくまで、あばらなるいたじきにふせりて、よめりける、
五条の后の宮の西の対に住んでいる女性(二条のこと、つまり自.藤原高子清和天皇の后になり陽成天皇貞保親王を生んだ)がいた
ほいにはあらで:本意ではなかったけれど
物いひわたりける:言い寄っていた
その女性は一月十日すぎに他の場所に住居を移した
あり所は聞けれど:どこに行ったのかはわかっていたが、
えものいはで:そのまま言い寄ることもしなかった
またの年:その翌年
こぞをこひて:前の年を思い出して
その西の対に行った
そして月が傾くまで荒れた板の間に横たわって歌を詠んだ

なりひら
月やあらぬはるやむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
月は同じではないのか、春は昔の春ではないのか、
この自分だけが元のままなのに

伊勢物語
むかし男ありけり、ひんがしの五条に忍びてきぎけり。みそかなる所なれば、かどよりもいらで、わらはべのふみあけたるついぢのくづれから、ありきけり。人さかしくもあらねど、たびかさなりければ、あるじ聞きつけて、そのかよひぢに人をすゑて、まもらせければ、いきけれど、えあはで帰りにけり。さてよめる、
昔、男がいました。東の五条の辺りに、たいそう忍んで通っていました。ひっそりとしている所なので、正面の門からは入ることができずに、子どもたちが踏みあけた築地の崩れたところから通っていました。人が多いわけではありませんでしたが、(通いが)たび重なったので、家の主人が聞きつけて、その通路に夜通し人を置いて見張らせたので、(男はその家に)行っても逢うことができずに帰ってきたのでした。そこで詠んだ(歌)

人しれぬわがかよひぢのせきもりはよひ/\ごとにうちもねななん
こっそりと人に知られないように通う通路で見張りをしている番人は夜毎に家の中で寝てほしいものだ。

とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじゆるしてけり。二条の后に忍びてまゐりけるを、世の聞えありければ、せうとたちまもらせ給ひけるとぞ。
と詠んだので、(これを聞いた女は)たいそう心を病んでしまいました。(それで)主人は(男を)許したのです。
(この話は、男が)二条の后のところにお忍びで参上したのを、世間の噂があったので、(二条の后の)兄達が、(その道を家来に)見張らせなさったということです。

「せうとたち(兄弟たち)」というのは、藤原長良の子らになる。高子の同母兄に藤原基経がいた。基経は、後に良房の養子になる。藤原家の繁栄の起点となるのは基経とするならば、北家の系統としては良房ではなく、長良であるとする考えが中世では主流であった。

系図

基経にとって実の妹の高子清和天皇に輿入れをして男子を産むことは、計略として上出来なことになるはずであったが、現実には高子基経は仲違いをし、憎み合うようになっていく。

で、高子が生んだ陽成天皇が宮中で殺人をしたというような話もあって、基経陽成天皇を退位させ、本来なら弟の貞保親王が天皇になるところを、文徳天皇の弟の時康親王(55歳)を光孝天皇にするくらい、基経高子は仲が悪かった。

その理由についていくつか書かれてはいるけれど、ここまでの対応をするほどの不仲の原因として「なるほど」と思える理由にはなっていない。

在原業平と二条、つまり藤原高子が、大鏡の文徳天皇の下りで書かれていることが伏線になっているのかも知れない。ちなみに「五条」とは、藤原順子のことで冬嗣の娘。長良、良房、良相らの妹であり、仁明天皇の后、そして文徳天皇の母である。

次は五十六代 清和天皇

清和天皇は、文徳天皇の第4皇子。上に3人の兄がいたが、藤原良房によって生後8か月で皇太子になる。

その理由は、清和天皇を生んだのが良房の娘の藤原明子だったから。

で、この清和天皇の后に藤原基経の妹である藤原高子がなり、産んだ子が陽成天皇となるが、実の兄弟である高子と基経の関係が悪く、陽成天皇を退位させ、陽成の息子たちに皇統を渡さず、文徳天皇の異母弟である時康親王が践祚して光孝天皇となり、さらに臣籍降下していた定省親王宇多天皇とした。

宇多天皇の次の醍醐天皇の母には、面白い話が「今昔物語」に書かれている。

このような話はこれから続いていくことと思われます。

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