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科学

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「意識」が生まれたのは偶然か?

さぼ郎
意識

脳はいかに意識をつくるのか」という本を図書館から借りてきています。この本の中古の価格を調べようと思ってアマゾンで検索したら、結構高いので買うのは諦めました。

早速、アマゾンから「意識はいつ生まれるのか」という本の宣伝が来たので図書館を調べたら、あったので予約をしました。

残念なことに、どちらも著者は(推定)アメリカ人で、翻訳本です。この手の翻訳本は、冗長でウソっぽいことが結構多いのですが、仕方がないので目を通してみようと思っています。

脳はいかに意識をつくるのか」によると、「意識」がどのように形成されているのかは、神経学的には特定されていないようです。

逆に植物状態になってしまったヒトに具体的に映像化しやすい問いを投げかけると脳の中で反応が起こるという報告が複数あるのだそうです。

植物状態を「意識の喪失」として捉えるなら、外部からの刺激に対する反応は、「意識」でも起こり得ることになります。

意識はいつ生まれるのか」の書評で「★」3つのヒトの意見によれば、その昔にIBMのスパコン(当時の)で視覚細胞をシミュレーションしたのだそうですが、理論による演算では、画像認識は不可能だったそうです。

その主たる理由は、神経細胞間の情報伝達の遅延だったのだそうです。つまり、視覚神経に入る像の情報と、それが何であるのかを認識することのタイムラグで、像と認識に整合を保てないのだと思います。

つまり、計算上では認識できないわけです。

しかし、現実には全く問題なく認識できているわけで、そこの理解が不可欠なようです。
魚類、両生類、爬虫類では、脳幹が脳の大部分を占める。小脳は、小さな膨らみにすぎない。大脳も小さく、魚類と両生類では、生きていくために必要な本能や感情を司る「大脳辺縁系」のみである。大脳辺縁系は、進化的に古いことから「古皮質」と呼ばれる。爬虫類では「新皮質」がわずかに出現する。
鳥類や哺乳類になると、小脳と大脳が大きくなる。特に大脳の新皮質が発達し、「感覚野」「運動野」といった新しい機能を持つようになる。霊長類では新皮質がさらに発達して大きくなり、「連合野」が出現し、より高度な認知や行動ができるようになった。
こうした事実を見る限り、意識』を肉体次元で実現するための設計指針が皮質系であると考えざるを得ない。
霊長類

この引用部分は、なかなか示唆に富んでいると思います。刺激に対する反応で考えれば、いかなる生物においてもあり得ることで、その反応において、認知が行動との間に介入してくるのは、生物の発達からすれば、大脳新皮質が関与していることは、ほぼ明確な気がします。

更に面白いことに、大脳では情報の処理として時間の調整を意識に上ること無く処理しているという報告があるようです。

外部から入る信号を脳神経が受信しても、それを情報として認知させるための時間的処理をすることで、無意識が「意識」できるように加工しているということ。

これには、得心が行くことがあります。

去年の後半辺りから、異様に肩と首が凝るようになり、ひどく凝るとめまいになることがありました。原因は、枕の高さが合わなくなっていたためと思われます。

で、めまいが起きている時、歩くと、目から入る景色が揺れて、とても気持ちが悪かったです。

ようは、カメラの手ブレ防止のことです。「デジタルカメラ等においては受光素子から受け取った画像データに計算を行い補正を施し記録する」ことを大脳皮質が行っているわけです。

デジカメ

つまり、我々が見ている景色は、実はリアルタイム画像ではなく、大脳新皮質で視神経から入る信号を整合させるための遅延の後に「」として認知しているわけで、実際に歩きながらの景色は、一歩一歩ごとにブレているのですが、認知している像は歩みのブレは除去されています。

この処理は、「意識」とは無関係です。しかし、処理後の景色は「意識」と密接な関係を持ちます。群衆の中の知った顔を見つけると「意識」は瞬間に発火します。

そのような働きをする意識が、脳神経のどの部分で作動しているのかが、未だにわからないということが、とっても興味深くて、そんな関係の本を少し読んでみようと思っています。

意識の本を読んでいたら、久々の「クオリア」が出てきました。
クオリアは身近な概念でありながら、科学的にはうまく扱えるかどうかがはっきりしていない(wiki)。
ようするに「チョコレート」といえば、色や味や口に入れたときの溶ける感触を想起できるような、主観的に体験される様々な質を云うのだそうです。

で、これが意識とどのように関連するかというと、実際に、そこにチョコレートがあるなら、それは神経処理としての反応ですが、そこのチョコがなくても想起できるとするなら、それは「意識」が生み出していることに他ならないからで、しかも、その経験は一人称的経験なわけです。

ゆえに「我思う、ゆえに我あり」なわけです。

しかも、脳内の反応であるわけで感覚に基づいた、脳内の信号と化学物質で構成されているわけですから、「シンギュラリティ人工知能が人間の能力を超えることで起こる出来事)」という事態が、現実のものになるとは、とても思えないのですが、どんなもんなのでしょうか。

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