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広開土王

さぼ郎
広開土王」というと、「広開土王碑」というのがあったなと思います。要するに「広開土王」別名「好太王」という傑出した王様がでて、その息子がオヤジの誉れを称えるために414年に作った石碑なのだそうです。

場所は中華人民共和国吉林省通化市集安市というところにあるとのことです。北朝鮮との国境に接しています。

それが明治13年に近所の農民によって発見されています。西暦414年というと、日本では「倭の五王」の頃になります。そこで、「広開土王碑」の漢文の解釈が日本にとっても重要な意味を持つこととなるわけです。

倭の五王の時代は中国に朝見していて、その記録は中国には残っていますが、日本書紀や古事記には記録されていないのだそうです。朝見していたことは、朝鮮半島における倭の利権を認めて貰おうとしていたようです。

結果として任那、新羅、加羅などは認めてもらったようですが、百済は認めてもらえていません。

この理由として考えられるのは、宋にとっての戦略上の理由と、高句麗の反発を考えていたようです。

で、冒頭の広開土王は、どの時代の高句麗の王様だったわけです。

記録では478年を最後に倭は宋に朝見することをやめているようで、その直後辺りから倭の王は自らを「大王」と称するようになっているのだそうです。

見てきた人がいるわけではなく、かつ、日本には文字がなかったので、記録は中国に頼る以外にはありませんが、とても興味深い話だと思います。

碑文には、倭が百済に通じたので高句麗が百済に進軍したら、新羅からも倭が攻め込んできたとの連絡を受けて、高句麗王が倭人を退却させた。そしたら朝鮮半島の西側から倭が攻めてきたので、これも敗退させた というようなことが刻まれているようです。

一般的な解釈というのがあるようですが、例によって韓国の学者の中には「倭」の存在を認めたくない人達がいるようですが、どちらにせよ、事実はこの碑文以上の物が出ない限り、碑文のようなことが起きていたことは曲げ用がありません。

もちろん、どのような解釈であろうが、その解釈のもととなる史実があったわけで、倭が朝鮮半島の南部に攻め込み、それを北の高句麗が押し返していたわけで、その高句麗も668年に唐に滅ぼされています。

高句麗が南下してくることに対して、南に位置した百済や新羅が倭に応援を求め、倭と高句麗が対決していたことは事実のようですが、にもかかわらず高句麗から渡来している人々も少なからずいるようです。「狛江」の「コマ」が使われているような地名には少なからず高句麗の影響があったようです。

おそらくは唐に滅ぼされたタイミングで倭に逃げ込んできたと考えられそうです。
高句麗から渡って来た遺民たちは駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野など、関東一円に居住させられたが、716年には1799人が武蔵国に遷され高麗郡が置かれた
とあり、ここの高麗神社(コマジンジャ)には、2017年には平成天皇・皇后が参拝しています。

日本と韓国の一部の人達にとっては、この二国間の関係が、いろいろな意味で面白くないのでしょうけれど、そのようなことは、薩長が東北を攻めたときのことを、特に会津などでは、いまでもよく思っていない人もいるようですし、もっと時代を遡れば南部と津軽なんてのもあって、これは戦国時代に裏切ったとかを、未だに根に持っているわけですから、日韓だって一朝一夕には解決のつかない問題なのでしょう。

しかし、それは感情の問題でしかなく、その感情は「教育」によって刷り込まれていることでしかなく、自己の体験では無いわけです。

つまりは多分に意図する人たちの価値観によって操作されているだけのことで、ネガティブな気持ちを埋め込むことには明確な意図があることを察知したほうが、双方のプラスになるような気がします。

そういえば、いま、悶着起こしている韓国の駆逐艦の艦名は「広開大土王」なのだとか。ずいぶん、広開大土王とは了見に違いがあるようだ。

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