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あれこれ

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小説の力と読み替えし

山本周五郎 天地静大

さぼ郎
10年くらい前に、バスを降りたらそのバス停の真ん前に古本屋があって、店頭で山本周五郎の「天地静大」の上下2冊が200円で売られていたのを買いました。

当時は、ご多分に漏れず、池波、藤沢、そして山本周五郎を思いつくままに読み、たまには司馬遼太郎を読むという感じで時代小説を読んでいましたが、「天地静大」という小説は読んだことがなかったので、とっても嬉しい思いで読みました。

概略の筋書きは、主人公の杉浦透は、東北の小藩の藩士であり、江戸藩邸に出て昌平校で勉強をすることになる。昌平校には、藩士の弟の水谷郷臣というひとがいて、この人が支援してくれて、洋学の勉強もするようになる。洋学に触れれば、今更昌平校で儒教を中心として学問をするより、これからは洋学だろうということになる。

そこで、父親に相談するものの、古風な父親は理解してくれずに勘当になる。

時節柄、小範においても佐幕と勤王が別れて、いがみ合い、殺し合いをするようになる という幕府瓦解の筋書きが進行していくのですが、その背景として水谷郷臣には2つボクロの人妻との恋があり、杉浦透には、やはり一回結婚して梨園になった、ナオという恋人がいる。

ナオは、無理やり再婚させられるものの、その再婚を嫌がって家でした江戸に出てくる。小梅町(墨田区にある)で施薬所で貧民を相手に救済をすることになり、そこで働くことに自分の使命を見出す。

水谷郷臣が、佐幕派の藩士から疎まれ暗殺を仕掛けられ大傷を追って運び込まれるのが小梅町の施薬所。そこで、ナオとの出会いからナオは水谷郷臣に惹かれていく。というか、人間としての「愛」に目覚める。

杉浦透は、友人・伊一郎の家に居候しながら洋学の出稽古で生活をつないでいる。伊一郎の父親は藩の中でのいざこざから殺害され、その下手人も調べればわかるので、母親は敵を取れというのだが、伊一郎は、敵をとっても負の連鎖が続くだけだとして母親とは義絶する。

伊一郎にはフクという妹がいて、フクは杉浦透がずっと好きだった。杉浦透はナオが好きだと思い、ナオも透を好いてくれていたからこそ家をでて小梅町にまで来ている。自分はそのことを貫かねばならないと思うものの、ナオは水谷郷臣に本当の恋をしてしまい、生涯独身を通すと誓う。

水谷郷臣の居所がバレて藩から刺客が来て水谷郷臣を殺害しようとするが水谷郷臣はナオの立ち会うことろで自害する。

で、フクと杉浦透はめでたく祝言をあげることになる。二人で母親に所に、その旨の報告に行こうとする旅すがら、筑波山を見ながら、佐幕だ、勤王だと争ってみたところで、天地は微動だにせず、静かで大きいものだと改めて思う。

幕府がジワジワと崩壊して行く。しかし、自分は父親に感動され、藩には籍がない。自分の洋学が、どうなるのかはわからない。しかし、この天地の静かさや大きさは自分を受け入れてくれるだろう として終わるわけです。

初回読んだときは、もっと感動したような気がします。

昨日、2回目を10年ぶりに読んだら、最後のシーンはちょっと残念やなと思うところもありますが、他の幕末物の小説とは根本的に異なっており、普遍的な人間模様が描かれていて、まさに「天地は静かで大きい」こと、そして人間は小さく喧(かまびす)しいこと。

その中で自分が果たすべき使命を見つけ、そこを目指して迷わず進むことを強く訴えてくるところに静かな感動を覚えました。

いま、AIの本を読んでいますが、人間の思考とか知性、あるいは言語などの原点には「感情」を抜きにしては考えられません。AIは、人間の知的な部分から人間の知性に辿り着こうとしていますが、方向が逆のような気がします。

つまりは、「シンギュラリティ(特異点)」などという怪しげな言葉で、素人をごまかそうとしていますが、AIが人智を超える(意思を持ち、喜びや悲しみを持ち、気遣いができる なんて)ことはないと思います。

それこそ日経サイエンスが、自称「知的素人」を騙すのに格好のネタではありますが、2045年に自動運転のAIが筑波山を見て「天地静大やなぁ~」というはずもありません。

小説中に橋本左内が登場してきますが、山本周五郎は橋本左内を「城中の霜」として別立てで小説を書いています。よほど、周五郎にとって橋本左内という人が衝撃的だったのだろうと感じます。

そこで、自分の曖昧な記憶です。自分の記憶では、杉浦透と友人の伊一郎が混同してしまっていたこと。父の仇をとらずに武士を捨てて江戸に出て庶民として学問を求めるところで終わるのだと思っていたいこと。杉浦透はてっきりナオと結ばれるもの思っていたこと。

この辺を、自分なりに勝手に山本周五郎の小説を脳内で編集していました。再度読み返して、ワタシ流に編集できれば、もっと良くなると思いました。山本周五郎は1967年に亡くなっていますので、著作権が放棄されています。

現在、「天地静大」は青空文庫で作業中のようです。脚本の書き方などわかりませんが、とりあえず書いてみようかと考えています。

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