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富永仲基の加上説

さぼ郎
道を歩いていると、ふと、脈絡もなく、思い出すことがあります。「加上」という言葉です。誰の言葉だったかも思い出せませんでした。

ググると「加上説」としてwikiに出ています。これを唱えた人が富永仲基という人です。1715年に生まれて1746年に亡くなっているので31年間に仏教の各宗派の経典を分類整理して、仏教のみならず儒教・神道などの宗教および思想の発展について普遍的な法則を見出した人です。

懐徳堂

簡単な流れを説明すると、大阪の商人が江戸の昌平黌のような学校を作ろうとした。それが懐徳堂。その出資者の一人が富永の親父だった。で、仲基は、懐徳堂で勉強したけれど、どうも破門されたようです。

懐徳堂」は後に、吉宗に認可されて一応、官許された学問所という位置づけになったようです。明治まで続き、いまは大阪大学のどこかに蔵書が収蔵されているようです。

その大阪大学は緒方洪庵の適塾を源流としていると書かれています。

その理由は、
およそ古より道を説き法を始めるもの必ずかこつけて祖とするところありて我より先にたてたるものの上に出んとするがその定まりたるならわしにして後の人はこれを知らずして迷うなり
と「出定後語」に書かれているのだそうです。

孔子
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儒教の教えはすべて孔子が説いたわけではなく、全てのお経は釈迦が説いたわけでもない。大乗思想は、釈迦が説いたものではなく、釈迦の弟子の弟子たちが釈迦に託して自説を発展させていった体系であって、とどのつまり大乗非仏論に行きつき、それを展開しているわけです。

釈迦
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そこで猛烈な仏教界からの批判に合うわけですが、富永仲基の方法は、現代で言えば文化人類学のような、体系だったサイエンスとしての論拠を持っており、その価値を最初に認めたのが本居宣長だったようです。
出定後語という文を著して仏の道をあげつらへる。かの道の文どもを広く引き出し詳しく証たるを見るに、目さむるここちすることどもおほし
という具合です(玉勝間)。ちょっとそこいらの坊さんでは敵わないくらい仏教にも儒教にも精通している上に、漢文も拙くないと絶賛です。

本居宣長
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本居宣長が絶賛するものだから「出定後語」は再販を重ねるほどに売れたようです。

富永仲基が一番いいいたかったことは、本当の思想というのは、その時代の、その人々に、生きているものでなければいけないのであり、その時代、その社会というのには、必ず傾斜があって、その傾斜に従って発展していく傾向があることを指摘しています。

そして新しいものほど、古いものを引っ張りだして尊ぶ傾向があると指摘しています。そのくせ、最高権威の威光だけは笠に着る仕組みになっています。

人間の肉体は有限だけれど、人間の思索は無限で心は受け継がれていく。このことに江戸中期の学者が思い至っていることを賞賛する人が少なからずいるということです。

ちなみに、加藤周一という人が「富永仲基異聞」という本を書いていて、その中で湯川秀樹さんとの対談があります。

湯川秀樹
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言わずと知れた日本で最初にノーベル賞を取った物理学者の湯川さんですが、なぜ、富永仲基を題材にした対談に登場しているかというと、湯川さんの母方の祖父から、湯川さんが5、6歳の頃に漢籍の素読を学んでおり、朱子学などに精通しているからのようです。

その湯川さんも、富永仲基のサイエンス(分類学)についてとても評価しています。また、湯川さんのお父さんも京都大学の学者だったようですが、そのお父さんの友人が内藤湖南という人で、この人も近代において富永仲基を絶賛した人です。

内藤湖南
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今の世に無名であることが、今の世における価値を示しているのか、はたまた逆に、今の世において価値を見いだせない今の世に誤りがあるのかはわかりません。

富永仲基の加上説を、いろいろな思想や新興宗教に当てはめてみると、結構面白いような気がします。

新井白石
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富永仲基が生まれたのは正徳という時代です。新井白石が荻原重秀を免職に追い込んだという時代です。荻原重秀は小判の改鋳をし、通貨を不安定したということで歴史に名を残していますが、異説もあります。

富永仲基と懐徳堂

それについては、また、別校にて。「富永仲基と懐徳堂」という本が図書館にあることを発見したので予約しました。新たな発見があれば追記します。

江戸時代の三賢人といえば、
新井白石(1657-1725)
荻生徂徠(1666-1728)
本居宣長(1730-1801)
あたりで、そんなに狂いがないように思います。

大阪大学の源流と言われた緒方洪庵(1810-1863)は、ダーウィン(1809-1882)と生年がほぼ同じです。

ダーウィンが「種の起源」を発表した1859年の11月には安政の大獄で獄に繋がれていた橋本左内と吉田松蔭が斬首されています。

山本周五郎の「城中の霜」という小説で橋本左内が刑場に引き出されて斬首される直前に懐紙を取り出してさめざめと泣くシーンがあります。これから来るであろう「明日の日本」に自分が活躍できない無念、そして国として自分を失う損失を思う心を周五郎は訴えたかったのだと思います。

浅右衛門の手記によりますと、左内も松蔭も立派な最後だったようです。切腹じゃないところが、井伊直弼の憎たらしさを感じます。

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