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歴史的

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大鏡《7》 宇多天皇

さぼ郎

五十九代 宇多天皇

治十年、院にて三十四年おはします。女御五人、みこ二十人、姓を給はる一人。

次の帝、亭子のみかどと申しき。これ小松の天皇の御第三皇子。御母、皇太后宮班子女王と申しき。二品式部卿贈一品太政大臣仲野親王の御女なり。

亭子:宇多天皇譲位後の御所の名。亭子院
小松の天皇:追号。
生前の徳業,行状とは関係なしに贈られた号は,追号と呼ばれ,諡号とは区別されている。厳密に言って正式な諡号ではない。
班子女王:仲野親王の御女。桓武天皇の孫。
仲野親王:桓武天皇の第皇子

貞観九年丁亥五月五日、生れさせたまふ。元慶八年甲辰四月十三日、源氏になりたまふ。御年十八。

源氏:臣下に落ちて源氏の姓を賜る。後に陽成天皇から「この間までは家来だった」と言われている

仁和三年丁未八月二十六日、東宮に立たせたまふ。やがて同じ日位につかせたまふ。御年二十一。世を知らせたまふ事十年。寛平元年己酉十一月二十一日己酉の日、賀茂の臨時の祭始まる事、この御時よりなり。使には右近衛中将時平なり。昌泰元年戊午四月十日、御出家せさせたまふ。

御年二十一:臣籍降下していたが、光孝天皇が崩御して21歳にして皇太子となり、同日、天皇の践祚した
賀茂の臨時の祭:宇多天皇のときから本祭に対して臨時の祭り行われるようになった
本祭は4月中の酉の日。臨時の祭りは11月下の酉の日
右近衛中将時平:藤原時平。基経の長男。菅原道真を陥れた張本人とされ、天神信仰が広まると、極悪人とされる。

肥前橡橘良利のぞうたちばなのよしとし)、殿上に候ひける、入道して、修行の御供にも、これのみぞつかうまつりける。されば、熊野にても、日根といふ所にて、「旅寝の夢に見えつるは」と詠むぞかし。人々の涙落すもことわりに、あはれなることよな。

橡橘良利:出家して寛蓮と号す
元来は殿上につとめていたが宇多天皇と一緒に出家して、天皇の熊野の修行にも同行していたおり、「ふるさとのたびねの夢に見えつるはうらみやすらむまたと訪はねば」
故郷の人が旅寝の夢に出てきたのは、私を恨んでいるからだろうか。また訪れてみよう
と詠んだらみんなが落涙したのももっともなことだ

この帝のただ人になりたまふ程など、おぼつかなし。よくも覚えはべらず。御母洞院の后と申す。このみかどの源氏にならせたまふ事、よく知らぬにや。王侍従とこそ申しけれ。陽成院の御時、殿上人にて、神社行幸には舞人などせさせたまひたり。

ただ人になりたまふこの宇多天皇が臣籍降下したのは、光孝天皇の計らいによる
基経と高子の確執で、陽成天皇が廃帝にされ本来なら、その子に皇統が継がれるはずであった。
光孝天皇は皇統が自分の系統になることで陽成天皇系と悶着が起きることを懸念して、光孝天皇の子らすべてを臣籍降下した
光孝天皇が崩御すると基経は、陽成系に皇統を戻さず、臣籍降下していた源定省を皇族に復帰した

位につかせたまひて後、陽成院を通りて行幸ありけるに、(陽成)「当代は家人にはあらずや」とぞ仰せられける。さばかりの家人もたせたまへるみかども、ありがたきことぞかし。

家人:「宇多天皇は陽成太上天皇の家来だった」陽成太上天皇が言った
天皇を家来にする太上天皇も類のないことですなぁ という皮肉

大和物語云
みかどおりゐ給ひて又のとしの秋、御ぐしおろし給ひて、所々に山ぶみせさせ給ひて、おこなひ給へり、肥前橡にて橘のよしとしといふ人、うちにおはしける時、殿上したりけるを、御ぐしおろし給ひてければ、御ともにかしらおろしてけり。

宇多天皇が出家して所々の山で修業をしたとき、橘良利という殿上人も出家して同行した。

人にもしられ給はでありき給ふに、これなんおくれ奉らでさぶらひける。かゝる御ありきし給ふことあしとて、うちの御つかひ少将、中将これかれたづねつ、御ともにさぶらへとて、奉らせ給ひければ、たがひつゝありき給ひて、いづみのくににいたり給ひて、ひねといふ所におはします夜ありけり

宇多法皇が、誰にも知らせないで、でかけるお供に良利は必ず遅れずにお仕えした。このように御幸なさることは、とても悪いことであるとして、少将、中将、誰それがお側にお付きしてお仕えしろと仰せられ遣わした。和泉(大阪府)の国にの日根(ひね:泉佐野市)という所についたある日の夜。

いと、心ぼそくあはれに、かすかにておはしますことをおもひて、いとかなしかりける。さてひねといふことを歌によめ、とおほせられければ、かのよしとし大徳、

ふるさとのたびねの夢に見えつるはうらみやすらん又ととはねば

とありけるに、みな人なぎてよまず成にけり。その名をなん寛連大徳といひて、後までさぶらひける

日根というところに泊まった時、心細くて悲しかった。宇多天皇が良利に「日根」という事を歌に嫁と言われて「たびね」に詠み込んだ。

旅をして寝ているとふるさとの夢を見た。みんな恨んでいるのだろう、二度と帰らないつもりだから。

と詠んだところ、その場にいた者すべて泣きだして和歌を詠めなくなってしまった。良仁は、のちに寛蓮大徳といって、長生きした。

*王侍従などきこえて殿上人にておはしましける時、殿上の御俯子のまへにて、なりひらの中将とすまひとらせ給けるほどに、御椅子に打かけられてかうらむ折れにけり。その折れめいまに侍る也。

なりひら:在原業平。
宇多天皇が若い頃、業平と相撲をとっていた時、天皇の椅子(玉座)の一部が折れてしまった。その時の椅子の傷がそのままになっている

**このみかどいまだ位につかせ給はざりける時、十一月二十よ日の程に、かものみやしろのへむにたかつかひあそびありきけるに、かものみやうじんたくせんし給ひけるやう、このへんに侍るおきなどもなり、はるはまつり多く侍り、ふゆのいみじくつれづれなるに、まつり給はらむと申給へば、そのときにかものみやうじんのおほせらるるとおぼえさせ給て、おのれはちからおよび候はず、おほやけに申させ給ふべき事にこそさぶらふなれと申させ給へば、ちからおよばせ給ぬべきなればこそ申せ、いたくきょうきょうなるふるまひなせさせ給ひそ、さ申やうあり、ちかくなり侍りとて、かいけつやうにうせ給ぬ。

要約すると、宇多天皇が帝になる前に賀茂神社のあたりで鷹狩をしていたら、そこいらのお爺さんのような格好して賀茂の明神が出てきて言うのは「春は祭りが多いが冬のまつりが少ないからなんとかして欲しい」とのことであった
そこで、「ワタシにそんな力があろうはずがない。朝廷に申し出るのが良いだろう」というと、翁に扮した明神は「力が及ばないものになど言うわけがない」「近いうちに何とかすることができるようになるだろう」というとかき消すように翁がいなくなった

いかなる事にかと、心えずおぼしめす程に、かく位につかせ給へりければ、りんじのまつりせさせ給へるぞかし。かもの明神のたくせんして、まつりせさせ給へと申させ給ふ日、とりの日にて侍りければ、やがてしも月のはてのとりの日、臨時の祭は侍るぞかし。

「なんのこっちゃ」と思っていたら帝になってしまった。そこで霜月の酉の日に「臨時の祭り」をすることとした。

あづまあそびのうたは、としゆきの朝臣のよみけるぞかし。

ちはやぶるかものやしろのひめこまつよろづよふともいろはかはらじ

ちはやぶる:荒ぶる神 というような言葉で「神」のたぐいにかかる
鴨の社の姫小松は、万世色は変わらない
なぜなら神の御威光があるから

これは古今にいりて侍り。人みなしらせ給へる事なれども、いみじくよみ給へるぬしかな。いまにたえずひろごらせ給へる御すゑ、みかどと申すとも、いとかくやはおはします。

古今和歌集に収録されている和歌である。うまいところ詠むものだ。今に絶えず盛んになっている。帝といっても、このようであった。

位につかせ給て、二年といふにはじまれり。寛平九年七月三日おりさせ給ふ。昌泰二年っちのとひつじ十月十四日出家せさせ給ふ。御名金剛覚と申き。承平元年七月十九日うせさせ給ぬ。御歳六十五。

臨時の祭りは、宇多天皇が位についてから 2年目に始まった。寛平9年(897)に退位し昌泰2年(899)に出家し金剛覚と名乗った。昌平元年(931)に崩御した。


宇多天皇のポイントは、光孝天皇からの皇統を継いだということ。このことはどれほどのことかというと、そもそも、宇田天皇が天皇になることからして、異様な話だったわけです。

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宇多天皇が、醍醐天皇に譲位してから旅に出た真意は今のところ不明であるけれど、そもそもは、系図を見ると分かるように陽成天皇の系統が皇統を継ぐべきところ、藤原基経と陽成天皇の母であり、基経の妹である藤原高子との確執から、文徳天皇の弟で55歳の光孝天皇が即位する。

光孝天皇は、自分の子が皇統を継ぐことがあってはいけないと思って、全員、臣籍降下させた。宇多天皇も源定省として陽成天皇の傍で使えていた時もあったにもかかわらず、基経は陽成の系統に皇統を継がせず光孝天皇の系統に皇統を変えたため、急遽、源定省が親王宣下を受け皇籍に戻り践祚して天皇になっている。

にも変わらず、基経を関白にしようとした勅書に「阿衡」と書かれていたことに怒って関白を拒否するという紛議を起こす。

当時の藤原はやりたい放題だし、公卿たちは基経の顔色を見ながら対応するような朝廷になっていたが、基経が死去するに及んでやっと宇多天皇の時代になる。

と、そのころから仏道に熱心になり、醍醐天皇に譲位してしまう。これにも諸説があって、陽成の皇統に戻らないように、先手を打ったということも書かれているが真偽は不明。

大和物語は、そんなころのことを書いてある。醍醐天皇の母についても今昔物語には面白い話が書かれている。

平安時代とは、なんにしても藤原の時代であり、実質的には藤原が天皇家を蹂躙しており、天皇になるためにも藤原の後ろ盾がなければ天皇であることすら難しいような時代でもあったということ。

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