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江戸城大奥 女性たちの信仰

さぼ郎
徳川家由緒の寺院としては、増上寺(浄土宗)、寛永寺(天台宗)、護持院(真言宗)が、それぞれ役割を担っていた。

護持院は、綱吉がどうこうしたと書かれていますが、湯島から神田の北に移したようですが、火事に会い音羽の護国寺の境内に移されたそうです。護持院の焼け跡は明治になるまで、ただの野原(護持院ヶ原)で、そこに東京大学の前身である開成学校が出来たりしています。

大奥とは

南から北に向かって「」「中奥」「」と3つの空間に分類されており、wikiによれば家康のときには「」と「」には境界がなかったのだそうですが、秀忠になって境界ができ、家光になると春日局が大奥の組織化をしたのだそうです。

春日局が権力を握ったのは、秀忠の正室のお江与と春日局が、3代将軍を巡って対立し春日局が家康に直訴して家光がめでたく将軍になった経緯があり、お江与が逝去した後に春日局が凛然たる権力を手中に収めます。

大奥では、おおよそ1000~2000人が働いていたようですが、最盛期には3000人にもなったとか。

大奥の職制はおよそ24もあったようで、上臈御年寄が最上位で公家の出身、次が御年寄。老中に匹敵したのだそうです。外出時は10万石の格式だそうで、給料もだいたい10万石相当だったようです。

1石=150キログラム
お米10キロを4千円とすると、60万円
簡単に10万石といいますが、金額にすると「60億円」です。
大名なら有り得る話ですが、大奥の上級職であったとしても、ありえない話のような気がします。格式が10万石だったという程度で、給料はどうなっていたのかは別途調べる必要がありそうです。

信仰:法養寺

家康側室のお万の方が熱心な法華信者で、女人禁制の身延山の七面大明神に登頂してしまったため、それ以降は、七面大明神は女人に解放されたとのこと。

大奥には近世初期から「法華信仰」が根付いている。そもそも日蓮宗は女人往生に解釈をしており、女性に人気のある宗教であったのだそうです。

稲荷信仰は、そもそもは農業の神だったのだそうですが、神仏習合思想において仏教の女神である荼枳尼天とも習合したこともあって、大奥に入ったのかもしれません。

また、最上稲荷などに見られるように法華経のこころをもって、衆生の悩み苦しみを和らげ安らぎを与えるというような法華信仰の稲荷もあります。

大田区の池上本門寺に隣接している法養寺は、もとは神田にあり「江戸時代には江戸城西御丸と大奥の祈祷所」と書かれています。

この由緒は、四代将軍家綱の御台所顕子(高厳院)が江戸城本丸に安置されていた祖師像を家綱に懇願して法養寺に寄進したのだそうです。

家斉の御台所寔子(広大院:篤姫の前に島津から近衛の養子になって将軍の正室になっている)付き御年寄の「瀧山」が法養寺の稲荷に深く帰依し、稲荷像が大奥に持ち込まれたとか。

この辺のやり取りの手紙から大奥の女性たちが法華信仰、稲荷信仰を含んだ日蓮宗に消えしていることが伺えるとのだそうです。

信仰:感応寺

現在は日暮里の南に隣接している天王寺になるのだそうですが、もとは、感応寺といい、日蓮宗だったのだそうです。

感応寺は、家康の側室英勝院や春日局らの帰依を受け将軍家と深い関係を有するようになる。

英勝院は子を生むが逝去し、不憫に思った家康は頼房の養母とする。頼房は水戸藩の初代藩主。頼房の生母はお万の方。

余談になりますが。英勝院は「梶」ともいい、家康が家臣に「うまいものは何か」と問うたところ、梶が「塩」と答える。では、「まずいものは」と問うと「塩」と答えたというエピソードが残っています。
春日局との関係では、駿府にいた家康に会わせ、家光が秀忠の後継となることを助けたという話がある。家康没後において、女性官僚として春日局と並んで最上位を占めた。
駕籠の順番は英勝院が春日局より先だったそうです。

ところが、綱吉になると、日蓮宗の不受不施派が嫌気され東叡山寛永寺の直末寺として天台宗に改宗させら、毘沙門天を安置することになったのだそうです。

しかし、そのため日蓮宗の信者が離れ寺の経営が困難になると、「富突興行」が許され、江戸の三富として谷中感応寺、目黒瀧泉寺、湯島天神が有名だったとのこと。

天保になると家斉が法華信者であった側室お美代に影響され感応寺に日蓮宗になるよう宗旨変えを命じましたが、感応寺は寛永寺に願い出て撤回させます。それに対して家斉、お美代は「長耀山感応寺尊重院」の山・寺・院号を変換させ、鼠山感応寺を作り、谷中の方は「護国山天王寺」として現在に至っています。

鼠山感応寺は家斉が逝去すると取り潰しになったそうです。水野忠邦による天保の改革と、僧侶の女犯も絡んだようです。鼠山とは目白4丁目の辺りで、豊島区が発掘調査をして礎石が出てきたそうです。

信仰:熊谷稲荷

熊谷稲荷の縁起によれば1665年に熊谷安左衛門が浅草寺の境内に稲荷社を勧進したことから始まるのだそうですが、明治の廃仏毀釈により浅草神社に移され破却を免れたものの、関東大震災で消失し再建されないままに今に至っているそうです。

浅草寺の境内に勧進された熊谷稲荷は分枝され寿町(台東区寿町2-9-7)にある本法寺に祀ってあるようです。絵巻は浅草寺に保管されています。

で、「法養寺」のところで登場した瀧山の項で書かれていた「稲荷像が大奥に持ち込まれた」とあるのが、「黒塗御箱」で、その箱には熊谷稲荷大明神縁起・黒塗箱大黒天像が入っていて、扉には熊谷安左衛門の名前が書かれているのだそうです。


科学が発達する前には、頼むところは宗教しかなかったわけです。その心は信仰心がないものには全くわからないことでもあります。

法華信仰が女性を受け入れていたという話と、その法華信仰と関連があるのでしょうが、今ひとつ不明なことに稲荷信仰が大奥に浸透していたことです。

瀧山が感謝した「黒塗御箱」に入っていたのは「大黒天」は、初期には真言宗でも天台宗でも信仰されたようです。室町時代には日蓮宗でも盛んに進行されたとwikiに書かれています。

ちょっとおもしろ事も書かれています。それは大黒天が米俵に乗っている姿は、米俵が金玉(医学用語では陰嚢)で、大黒様の頭巾が亀頭ということで、子宝、子作り信仰としての側面もあったようで、大奥ならなおさらのことと思いました。

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