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視点

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支配と善

さぼ郎
よく「性説」とか「性悪説」のような言葉を耳にします。「」とか「悪」とは何かと問えば、おおかた、「道徳」とか「倫理」のような概念が関わってきます。

動物として、その本能に「」とか「悪」があるとは考えにくく、結局は社会を統治するために生まれた便法のように思うのです。

過日、国会で安倍首相に対し「法の支配」の対極にあるものは何か? と問いを出した野党議員がいて、憲法改正を声高に唱える安倍首相は、残念ながら答えることができませんでした。

「法の支配」の対局にあるのが「人の支配」で、一般的に国家の生成とともに「聖なる統治者」が問答無用に世襲によって国を統治するというのが古代における国家誕生のパターンです。

世襲には、全く合理的な理由はなく、単に「聖なる」ぐらいの権威でしかないわけですが、そこに統治の意味や価値を作り出せる限りは、国家は安泰ですが、多くの場合は、新たに「聖なる」権力者が出てくると、国家の統治者が変わるという歴史の中から、議会制民主主義が誕生してきました。

議会制民主主義では、専断的な独裁者による「人の支配」を排除できる法的な仕組みが不可欠になります。

このことを違う観点から考えると、「法の究極」にあるものとして「究極の」なのか「究極の権力」なのかというような見方もできるようです。

しかし、「」とは何かと問えば、宗教が人心を支配していれば、その宗教的で済む問題ですが、宗教観のない場合においての「」とは、子供の頃から親や大人や教師から刷り込まれた「正義」でしかないわけです。

戦前の日本の究極のは天皇の神聖だったわけですし、将軍とか大名が跋扈していた時代のは、彼らの考え一つで正義などは幾様にも替えることのできる極めて曖昧なものでしかなかったはずです。

つまり、法の究極にあるものは「」ではなく、「」を定義し遵守させられるだけの「権力」であることが唯一の真実だと思います。

つまりは、法の支配といえども「人の支配」であることは、きっと間違いがなく、民主主義といえども、どこの国もたまたま選出されたリーダーの個人的な資質に大きく依存しており、その選出過程は、単なる人気投票でしかないわけです。

現内閣の支持率は40%の前後だそうですが、自分の回りにいる人、その周りにいる人の周りにいる人で、現内閣を支持している人は、知っている限り「ゼロ」%です。

にもかかわらず世論調査では40%という大きな支持率が政権を支えています。統計などは、バイアスのかけ方でいくらでも数字を誘導することはできますし、代替する政治勢力が皆無なことも追い風かもしれませんが、これが「人の支配」を知らないリーダーによる「法の支配」の究極のであるわけですから、民主主義とは、大いなる欠陥のあるシステムでしかないと思わざるを得ません。

人は猿から進化したとされています。進化とは、どういうものなのかは概念的にはわかりますが、では、チンパンジーと人間の中間に位置する進化の過程のような動物だって、多様性からすればたくさんいてもいいはずなのに見当たりません。

適者生存とか言うけれど、種として固定することは、とても不思議です。遺伝子の突然変異とかで「癌」がこれだけ発生しているのに、「ヒト」としての姿や機能には、ほとんど差異がありません。

政治も似たようなもので、政治家の数だけ考えがなければならないのに、政党の数だけの考えに集約されてしまうなら、選挙なんて全く茶番でしかなく、政治家個々の特質や能力、知識、経験、道徳観などがいかされない「法の支配」などは笑止な茶番でしかないように思うのは、ワタシだけなのでしょうか。

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