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雑感

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オリンピック行進曲に関する思い出

さぼ郎
NHKの朝ドラで「エール」というのをやっていて、ワタシは1回も見なかったのですが、ヒトから伝え聞いて楽しんでいました。

前回の東京オリンピックの時は、中学生になったばかりの頃でした。中学生になったらブラスバンドに入ってトランペットを吹くのが夢でしたので、まずはブラスバンドに入りました。

というのは、どこかでベルト・ケンプフェルトの「星空のブルース」を聞いて「これだ!」と思ったからです。



学校にはトランペットが1つしかなくて、それは3年生の石塚さんが使っていました。あとは、2年生の広瀬さんと井出さん。そして1年生の3人がコルネットでした。

ちなみに、石塚さんは映画「西部開拓史」のオープニングの序曲を映画館に通い詰めて楽譜に落とし込むような人で、各パートに譜面を配ってくれてみんなで練習しました。



これは余談でした。

で、オリンピック行進曲の練習をして、全校集会のとき、講堂に入る間の行進曲として、かの古関裕而先生の「オリンピック行進曲」を演奏したことがあります。



が、「ああ、あれね」というような代物ではありません。鮮明な記憶に残っているぐらい、とてつもない悲惨な演奏でした。

本番のオリンピックでのファンファーレにも思い出があります。先輩が、ファンファーレで誰かが失敗するか、しないか賭けにしようということで、ワタシは当然、失敗しない方に賭けましたが、ちょっと音が外れて負けました。

賭けたのはアイスクリームでした。取られたはずですが記憶では、アイスクリームをどういうわけかもらえたのですが、その日は腹具合が悪くて、食べたふりをして後で処理をしようと思って机の中にアイスクリームを入れたまま、忘れてしまったので、気がついたら引き出しの中で溶けていました。

オリンピックというと、当時の中学校では全国で市川崑監督の映画を見に行ったはずです。我々も隣の町の映画館にぞろぞろとみんなで見に行きました。

マラソン選手が一人で延々と炎天下を走っているシーンが印象に残っています。

その後、2年になって仲良くなったサッカー部の部長の日野に頼まれてブラスバンドをやめてサッカー部に入り、来る日も来る日もしごきでえらい目にあいましたが、今から思えば思い出の一つです。

今から考えれば信じられない話ですが、サッカー部に部員が10人しかいなくて試合にならないからサッカー部に入ってくれということで、仲が良かったから仕方なしにサッカー部に入ってルールも知らないのに試合に出ました。

球が偶然来ると、敵が寄ってくるので、ともかく人のいないほうに蹴りだしていました。

夏目漱石に言わせれば、人生、出来事すべてが「道草」のようなものなのかもしれません。

さて、来年を予定しているというオリンピックですが、大方の人は開催は無理と思っていると思います。

ワクチン1回分が50グラムとして2億回分の重量は、なんと1万トンです。船で運べばどうにかなるでしょうけれど飛行機運ぶとなると冷凍機を含めて200~300便、あるいは500便くらいが必要になりそうです。

製造が間に合ったとしてすべてがスムーズにいって、やっと6月頃に間に合うような感じになりそうです。ただし1月にワクチン接種した人の免疫が9月くらいまで持てばのことですけど。

政治を見る限りでは後進性がみなぎっていますが、日本国民の良識を先進国としてやっとどうにか間に合うぐらいですから、全世界あまねくに浸透させることは不可能に近そうな気がします。

戦をして負け戦になった時は、しんがりが一番大変だとよく言いますが、撤退の判断は難しい上に、多くの利権や経済にも絡むことだし、選手のメンタルやモチベーションにも大きな影響を与えることではありますが、一番いけないのがずるずる先延ばしして「やっぱりだめだった」になってしまうこと。

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これではインパール作戦の二の舞になってしまいます。希望的観測は大いに結構ですが、怜悧な数値的根拠を示して進むのか、はたまた撤退かを説明する時期に来ていると思います。

Go To キャンペーン」ですら、根拠をもって決断できない政府としてどういう推移をするのかが見ものですね。どちらにしても農民出の総理として歴史に名を残すわけですが、それが数年なのか数十年なのかは本人次第です。

それも美名としてなのか悪名としてなのか。愚かな大将、敵より怖い」なんて言葉もあります。

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