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あれこれ

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民主主義とは名前の連呼と見つけたり

さぼ郎
台東区では、この日曜日に区議と区長の選挙だそうです。

普段、どこで何をしているかわからないような連中が跋扈して宣伝カーで名前を連呼して表通りから裏通りまでを走り回っています。

内容は、名前の連呼だけです。「地元の小学校を卒業した区議は自分だけ」というのも投票をお願いする重要なフレーズです。

自民党とか共産党のように、素性が分かっている政党の公認候補は、政党の名前くらいは連呼の合間に入れているようですが、殆どは名前、名前だけをでかいスピーカーで騒ぎ立てているのが民主主義として最上にして最良の議員選出の方法のようです。

それでも大過なく過ごしてこれているのですから、おおよそは、この民主主義の方法にも大きな誤りはないというのが過去からの経験則なのかもしれません。

しかし、それなら、もっとお金をかけなくても、同レベルの選出方法もありそうですし、もっともっと工夫すれば、より良い選出方法だってありそうな気もします。

小学生のとき、1学期の学級委員長は先生が選んでいました。2学期と3学期は立候補させて選挙をしていましたが、今から思い出せば1学期の学級委員長の出来が一番良かったような気がします。

選挙をするということは、立候補している人の中からしか選べないわけで、それで最良の選択ができるはずはありません。選挙なんて、スタートから茶番です。

そもそも、専業で政治家をやろうなどと考えること自体が邪(よこよま)な気がします。国政だって似たようなもので、政治家は官僚の隠れ蓑でしかなく、顔を出さない官僚が裏で好き勝手をするのを黙認さえすれば、ちょっと足りなくても官僚がカバーしてくれるわけですから、実は政治家は誰でもできる仕事になっているように思います。

そこを打破しようとしてもかつての民主党にように、裏付けもなく勢いだけで官僚機構を国民のために努力させられるはずもなく、結局は揺り戻されてしまいましたが、国民の選択であったと同時に官僚が仕向けたことでもあったはずです。

今回の参議院選挙でも同様で、野党が仮に野合して選挙協力して自民党に議席数で上回るようなことがあったとしても、官僚の首を押さえつけて新政権与党の下僕にするぐらいの腕力がない限り、日本の政治は変わらないと思います。

そのことは地方の方が劣化が激しいはずで、その理由は、素人に毛の生えたような地方議員にできることなど、たかがしれているからで、結局は地方公務員のエリートたちの煙に巻かれることは目に見えています。

ようは、政治家の利権と官僚の天下りがセットになる構図が、安定した政権になるわけで、そのために名前を連呼しているというわけです。

ここを真剣に変えようとすれば、きっと変えられるわけで、憲法9条の改正よりずっと現実的だと思います。

「法の支配」の真逆が「人の支配」であることを知らない立法府の長の奥方が関与した(と国民に思われている)森友事件では、まざまざと佐川某による「人の支配」を連日テレビニュースで放映していましたが、そうした原因を作った夫婦が憲法を改正して「人の支配」を強めようと躍起になって、この夏には全国で名前の連呼が始まるようです。

挙げ句には首相を4選させようじゃないかなどとヨイショする人も現れ、権力が長引けば腐敗することは自明のことで、腰巾着、お茶坊主らが忖度することで、匂い立つような腐臭をもうじき嗅ぐことができそうです。

民主主義とは名前の連呼であるわけで、それでも国や地方がそれなりに運営できているのは官僚が優秀だからではなく、平和だからであって、平和な国家とは国民が腑抜けの痴呆になることでもあるのだなぁと感心しながら区議選の宣伝カーに近寄らないように道を選びながら歩いています。

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