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歴史的

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大鏡《6》 光孝天皇

さぼ郎

五十八代 光孝天皇

治三年女御四人、男女のみこ四十一人、此内源氏三十五人。小松の御門と申す。

次のみかど光孝天皇と申しき。仁明天皇第三の皇子なり。御母贈皇太后宮藤原沢子(たくし)。贈太政大臣総継(ふさつぐ)の御女なり。

藤原総継:総継は北家であるが、魚名流の系統で本流からは離れている。結果としての本流は「真楯」の系統となる。総継は真楯の弟の魚名-末茂の子と言う位置になるが、沢子が仁明天皇の女御となり光孝天皇の母となることで外祖父になれたため太政大臣まで上り詰めることができた。

このみかど淳和天皇の御時の天長七年庚戌、東六条の家にて生れたまふ。御おやの深草のみかど(すなわち仁明天皇)の御時の承和十三年丙寅正月七日、四品したまふ。御年十七。嘉祥三年庚午五月、中務卿になりたまふ。御年二十一。

中務卿(なかつかさきょう):「中」とは宮中のことで、最も重要な役所であった。平安時代は四品以上の親王が長官を務めた。

仁寿元年辛未十一月二十一日、三品にのぼりたまふ。御とし二十二。貞観六年甲申正月十六日、上野太守かけさせたまふ。御年三十五。

上野太守(こうづけのかみ):上総、常陸、上野の国司の長官には特に「太守」とし親王の職であったとのこと

同じ十二年庚寅二月七日、二品にのぼらせたまふ。御年四十一。同じ十八年丙申十二月に式部卿にならせたまふ。御年四十七。

式部卿:中務卿に次ぐ重要なポストで弘仁3年より四品以上の親王が任ぜられる慣例ができあがっていったとのこと。

元慶六年壬寅正月七日、一品にのぼらせたまふ。御年五十三。同じ八年甲辰正月十三日、太宰帥かけたまひて、二月四日、位に即きたまふ。御年五十五。

太宰帥(だざいのそち):九州の外交と防衛の責任者であり親王が就くことになっていたが、現地には赴任しなかった。赴任するのは太宰権帥が実権を握った。

世を知らせたまふ事四年、小松の帝と申す。この御時に、藤壺の上の局の黒戸は開きたると聞きはべるは、まことにや。

世を知らせたまふ:天皇として世を治めるということを意味している
黒戸が開く:要するに江戸城で言うところの大奥に入れるようになったということの逆で、后妃が帝の寝所に参上するときに使用する部屋のことらしい。

大鏡の帝紀において光孝天皇に関する記述は、なんだかとても淡白である。おそらく、藤原を語る段になると詳細な話になることが予想される。

img系図

系図を見ればわかるように、ほどんどの天皇が藤原の娘たちで占められている。ということは、娘たちの父親は天皇の外祖父になる。

それは「文徳天皇」が冬嗣の孫であり、「清和天皇」は良房の孫になる。「大鏡」では文徳天皇から始まるが、冬嗣の孫が天皇になったということが藤原繁栄の起点になっているという解釈があればこその構成になっている。

清和天皇の妃になったのが藤原高子で、基経と同母妹である。基経・高子は藤原長良の子であるが、長良が死去した時点で本来なら権力街道のメインストリームからは外れるところであったが、良房には男の子がいなかったことと、基経が際立って優秀であったことから良房の養子になる。

その基経と高子は、骨肉の争いというか憎み合うことになる。清和高子の間に生まれた陽成には、問題のある行動があったということが定説になっているが、ともかく結果として陽成には男の子があったにもかかわらず基経は陽成を廃帝にし、文徳天皇の弟で55歳の時康親王光孝天皇とした。

どうして実の妹にも関わらず、そのような酷いことをしたのかは「大鏡」がいずれ解説するとは思うけれど、それはそれとして、基経は単なる太政大臣でしかないのに今上天皇を廃帝にし、後継者がいるにも関わらず自分の意のままに選んだ親王を天皇に即位させていることに驚きを禁じえない。

基経と高子が憎みあうこととなった原因の一つに在原業平の存在があると書かれているものも少なくなくある。なかでも「伊勢物語」では、高子と業平の恋が描かれており、出奔した高子を基経らで取り返すような話のようだ。

藤原にとっての女子は、天皇家に嫁がせて男子を生ませるための重要な武器であるため、それで基経の逆鱗に触れたかは今のところ不明。

それだとするなら高子が生んだ陽成を廃帝にして、陽成の子にも皇統を継がせなかったことが理解できる。

その辺のことを予備知識としておくことで「大鏡」は、ますます面白くなっていくはず。

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