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あれこれ

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自分事と他人事

さぼ郎
世の中には「自分ごと」と「他人ごと」があります。「他人ごと」は、「第三者的に言えば」のような感じ。とすれば「自分ごと」は「当事者」としてのポジションになります。

しかし、現実には「自分ごと」で考えたり意見を言うことも、「他人ごと」で考えたり意見を言うことも、明確に識別しているわけではありません。

テレビの向こうに映る芸能人や政治家のしでかす様々な不祥事や毎日毎日起きてしまう事故や事件に関しても、あたかも「自分ごと」のように考え、日常会話として意見を交わしたりしています。

最近の事で目にしたのはシリアで3年半も拘束されていて、最近ようやく開放された安田さんのことに関して、テレビでは落語家、コメディアンから評論家、MCと称するタレントなどが自己責任論で、あーだの、こーだのと意見を披露していました。

関わりからすれば「第三者」でしかありません。散々、身を入れて意見をとうとうと申し述べても、3日もすれば次なる話題で「第三者」のポジションから意見を、さも、100年も前から考えていたかのごとく申し述べています。

このことが無責任だというのではなく、すべからくはテレビというショーにおいて行われていることであって「報道番組」すらも、大方はニュースショーに過ぎません。

山本周五郎の「天地静大」で、友人たちが微妙に立場を変えていくことや、佐幕か尊皇かで対立していくことも、考えてみれば、自己の保身としてどちらにつくかで行動した人も多かったでしょうけれど、大げさに言えば武士の「規範」として行動を選択していった人も少なからずいたわけです。

自を例にして、例えば皇統の正当性は「南朝」か「北朝」かと問われても、そんなことはどっちでもいいわけで、というか、全く興味のないことでしかありません。

韓国の最高裁で出された徴用工の判決であっても、ニュースや解説としてしか知りえないことであって、少なくとも「自分ごと」として考えることはできません。にもかかわらず、世間的な風潮というか雰囲気として「韓国けしからん」とあたかも当事者の気分で意見を持ってしまう部分があれば、これは恐ろしく空虚なことだと言わざるを得ません。

興味があるか否かという観点もあれば、「」か「」かという観点もあります。または、「」でもあり、かといって「」でもあるというようなことも、意外に少なくありません。

安倍政権をどう思うか」と聞かれたとして「当事者」としての意見(立場?)はありません。「第三者」として意見を持ったところで、その意見はほとんどなんの意味を持つわけでもありません。

つまりは、「第三者」としての意見を持つこと、考えることの価値は、ほとんど無価値に等しいわけですが、そうはいっても、そうした意見によって自己が規定されていくことも少なからずあるわけです。

莊子は、世界の紛争は親指1本で解決がつくといいました。というのは、自分の親指は「この指」ですが、他人の親指は「その指」になります。「その指」という限り、世界中の人の親指は「その指」として捉えることができるわけですが、「この指」という限り、自分の親指でしかないわけです。

」という主張をなくせば、対立も紛争もなくなるというのが莊子の主張です。しかし、ここでいう「」とは「当事者」のことでもあります。みんなが第三者(彼)になれば、どういう世の中になるかと言うと、やはり紛争も対立も絶えないような気がします。

ようするに、実は自分に全く関わりのないことに意見を持ちすぎ、その意見が自己の主観であるがゆえに、そこに利害が全く無いにもかかわらず「当事者」としての考えのごとくに影響を受けてしまい、天皇陛下という自己にとっての第三者のために特攻や玉砕をするようなことにもなるのかなと、第三者的に考えてしまいます。


白川前日銀総裁の講演で、現下の大規模金融緩和の益と害を質問された答えとしてかれは、「第三者的に語る資格はない」という言い方をしました。

そのことは、日銀という組織においてOBであれ「自分は当事者である」というポジション(矜持)の表明です。

当事者であるがゆえに第三者として語ることが出来ないという立場もあるわけです。逆にYouTubeなどで金融政策や財政政策を語っている評論家(上念司さんとか高橋洋一さんなど)の話を見たり聞いたりする限り、彼らは、あたかも当事者であるがごとくに語りますが、じつは徹底的な「第三者」なはずです。

このあたりをまとめると、結局は、「第三者」ならいくらでも責任を持たずに話すことができるということであり「当事者」は「第三者」とは質的に異なるポジションに居るということになります。

莊子先生の言説に逆らうこととなりますが、ヒトは、当事者であることに意見を持ち、責任ある会話をしていくことがそのヒトの矜持になっていくのだと言えそうです。

そこに「第三者」的な虚言、盲信が入り込んで、あたかも「当事者」のごとくに取り込まれたかの錯覚が、莊子先生のいう紛争や対立につながっていくのでしょう。

白河前日銀総裁のような物の言い方の底流にあるものが「当事者」として強い自覚なのだと感じた次第です。

つまり、大人の会話としては極力、「当事者」であろうとすれば、白河前総裁のように他者を非難することもなく上品で配慮の行き届いた会話になるのだと感心して見ていました。

こういう会話ができる大人が増えることで、次世代に より良い世の中を継承することができ、ついにはいじめや対立や紛争がなくなる世界が作られていくように思います。

総理大臣やその夫人が、モリカケであからさまな嘘と詭弁を弄し、財務大臣が配下の財務局で決済文章の改ざんがあったにもかかわらず、何ら責任を取らず、あたかも「第三者」のような顔をしているような厚顔な政治家の有り様を連日見る限り、まだまだ、日本の社会は発展の途上にあるとしか言いようがありません。

民主主義」である以上、ある程度の不効率は必要悪として発生しますが、その不効率は「公正・公平」を慮るがゆえに生じる事です。そして、公正・公平」を守ろうとするから、そこには歴然とした「正義」が存在できるはずです。

逆を言えば「正義」を希求しようとしないならば、それを「民主主義」とは呼べないわけです。今の安倍政治は、「正義」の観点からして「民主主義」を標榜できるレベルの政治でもないし、それでもいいとして支持する有権者が少なからずいるという事実と、今以上を選ぶ術がないという事実に直面してしまいます。

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