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万世一系と男系男子

さぼ郎
ピラミッド

時代区分で分けると大まかに言うと、古代、中世、近世、近代そして現代となります。これは、きっとどこの国でも同じことなのでしょう。

時代区分

網野善彦さんは、南北朝時代を境に、内藤湖南さんは、応仁の乱を境に、日本は前と後とで、全く別の国になったと言ってもいいくらいの変貌があったそうです。

そんな話から、中世について書かれている新書などを何冊か読んでみました。まだ、いまだにその「変貌」が掴めていませんが、とはいえ、今まで知らなかったことなどが少しずつ自分なりに解明できてきています。

直近で読んだのは「天皇はなぜ万世一系なのか」という本で、東京大学史料編纂所の本郷和人さんという准教授が書いています。

彼の考えとすれば、天皇が万世一系であったのは、たまたまだったと言う話です。ま、後宮と言うのがあって、当時の天皇は20人前後の皇子や皇女がいたので、男系を守ることは、さほど難しくはなかったようです。

また、女性天皇も、何人かはいました。

女性天皇

斉明天皇や元明天皇は、男の子を産んでいて、その男の子が天皇になっているので女系天皇ですが、配偶者がそれぞれ、舒明天皇だったり、天武天皇なので、男系は守られています。

また、女性天皇は、推古天皇から称徳天皇までは、古墳時代から奈良時代に集中していて、明正天皇と後桜町天皇の二人が江戸時代ということです。中世には女性天皇はいません。

元正天皇、孝謙天皇-称徳天皇は、どうして生涯独身だったのかは不明ですが、朝廷としては皇統については考えがあったはずです。まして、孝謙天皇には弓削道鏡を天皇に据えようとしたなどという、伝説めいた話もあります。

たまたま、「男系で来た」という話には素直にはうなずけません。古代までの天皇と、中世以降の天皇とでは、分けて考える必要がありそうな気もします。

男系男子

その境目は、やはり「承久の乱」になるのでしょう。ここで、天皇と幕府の力関係が変わる大きな節目になります。以降、明治まで天皇はまさに、権力にとっての「象徴」であったわけです。

天皇が男でなければいけないとする明確な考えは、どこから来たのかについての書物をみたことはありませんが、中国においても皇帝はみな男で、後宮に美女を侍らすのは洋の東西を問わず、似たり寄ったりです。

むしろ、男女同権と言われている現代のほうが、歴史からすれば異様なことであることは事実のようです。つまり、文明が確立してくる過程において「男尊女卑」は当然のこととなってくるのが摂理のようですね。

男系男子」が明文化されるのは明治の皇室典範からだそうです。伊藤博文案では「男系が絶ゆるときは、皇族中、女系を以て継承す」とのことのようでしたが、井上毅の意見によって、「大日本帝国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子之を継承す」となったようです。

ちなみに「万世一系」は、岩倉具視の造語のようですが、大日本帝国憲法に記載されています。男系男子を神武天皇から今生天皇まで辿ってみると。

天皇

天皇としての継続を考えると、神武天皇からちょうど60人目になります。他の60人の天皇は、今生天皇に連なる「一系」ではなく、兄弟で天皇になったりして系列が分裂しています。

両統迭立になった亀山天皇と後深草天皇も兄弟でしたし、亀山天皇の息子の後宇多天皇は、後二条の系統を天皇にしたかったのですが、後二条の皇子が小さかったため、仕方なしに後醍醐を天皇にしたのですが、後醍醐の系統に優秀な人材が出ても、後二条の系統の天皇を補佐させるようにと遺言までしています。

つまり、後醍醐天皇は「一代主」であるべきであって、その掟を破っているのが「南朝」ですので、南朝正統論の根拠は「三種の神器」だけということになります。

今生天皇は北朝の後花園天皇の系列に連なります。ここからは一系で来ていますが、平成の次の天皇(今の皇太子)には男子がいませんので、系は途絶えて、秋篠宮の系列になります。

このように「万世一系」とか「男系男子」が文字として明文化されるのは、じつは明治前後からのようで、日本が近代化するタイミングに、とっても古典的な価値観が持ち出されることも、おそらく時の為政者たちにとっては不可欠なことだったのでしょう。

まず、幕末辺りから「国体」という概念が、尊皇攘夷において中核的な理論として幅を利かせるようになります。また、明治早々の政治体制として太政官制のような太古の政治体制を持ち出し、天皇親政による政治体制を作るために、檀家制から氏子制にしてみたり、先に進むのか、後ろに戻るのかが曖昧になりましたが、明治18年に内閣が発足したことで、太政官制は廃止されました。

天皇が崩御したときの「大喪の礼」などは、このときに平安時代辺りから持ち出した儀式が、明治・大正・昭和にも行われました。平成天皇は山切り開いて天皇陵を作るのではなく、燃して欲しいとの遺言のようですが、古式豊かな大喪の礼」は行われるのでしょう。

大喪の礼
西野神社の社務日誌にリンク ↑

岩倉具視の「万世一系」の元になったのはなんであったのかはわかりませんが、北畠親房による「神皇正統記」は、劣勢になり、吉野の山に篭って自分たちの担いだ神輿(後醍醐天皇)の正当性を鼓舞するために書いたような気がします。

水戸徳川家が作った「大日本史」も、「神皇正統記」の影響を受けているとのことで、水戸は南朝を正統としていることが、幕末の争乱に大きな影響を与えています。

嘘か本当かはわかりませんが、徳川は新田の末裔であるという前提であるため、徳川の正当性はすなわち南朝の正当性を意味するという説もあります。

それが本当なら、統幕の理論になるというのも皮肉な話です。

慶喜が鳥羽伏見の戦いで「逆賊」になることを恐れたことも水戸藩における教育の影響は大きかったようです。

武家や商家では、男が絶えたときに他家から養子を迎えて「」を絶やさないわけで、将軍も、徳川は血縁でなんとか繋げられたようですが、鎌倉幕府の将軍は、源氏の三代のあとは皇族か摂関家の御曹司でした。

足利は義昭まで、血族でつなげることができましたが、太平の世なら「世襲」でもなんとかなりそうですが、争乱の世を取りまとめていくとなると「能力」は不可欠な要素になります。

世襲」で「」を絆ぐことは出来ても「能力」の継承は難しそうです。そのことは、スポーツにおいて歴然です。よって、商家で優秀な番頭から養子を迎えることのほうがよっぽど合理的なような気がします。

政治家に「世襲」が増えていることと、昨今の政治の低劣化とが、無関係ではなさそうですが、このあたりにつきましては、また、次回!

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