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政治的

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市場主義の限界

さぼ郎
市場」は公共善を実現する最良の手段であることが前提となっている。しかし、道徳から逸脱しかねない至上主義が、最良の手段と言えるのであろうか?

市場主義の中核にあるものは「競争」であり、勝ち抜き、勝利を独占しようとする「強欲」である。

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市場主義では、すべてのものをお金に換算しようとする。それは物だけでなく、知識、経験、学力、環境、文化、芸術、科学、技術。さらには興味、関心、人間関係、愛欲。貧しさだって貨幣に換算できるだろ。

逆は真ではない。貧しさによって豊かさを買うことはできない。ただし、競争から逃れ、強欲から解放されるという豊かさは手に入れることができるかもしれない。

そうなるとお金を持たない人々の手にできるものには制限ができてしまう。つまり、貧しい者と富める者との格差が甚だしくなってくる。

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あらゆるモノ、コトがお金で買えるとするなら、お金の重要性が市場主義の根源であり、不平等の蔓延は回避できない事となる。

子供の勉強は、ある程度までならお金で買える。戦争こそは、お金がなければ始めることすらできない。

とどのつまり、お金で買えないものは「非市場価値」なものだけに限定されてしまう。挙げ句に、その「非市場価値」なものすら、お金に変えていこうとする姿は、「人工知能」に人間の「知能」を置き換えていくことにも似ている。

善なる行い」もお金で買うことができる。日本でも売血が許されていた時代があり、お金が欲しい人たちが過度に売血(黄色い血)するようなことがあり、血液の質が低下するようなことも起きたし、管理が悪ければウィルス性疾病の感染源ともなった。

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献血は善行であるはずなのに、国が貧しいと「市場価値」を有してしまう。

散弾銃による狩猟も冬になると解禁されるが、免許を持っているヒトは狩猟税を収めることで狩猟ができるようになる。日本には古来の雉がいた物の数が少なくなっていたためコウライキジを放鳥している。

結果としてコウライキジと在来種の日本雉が交雑することになるが、狩猟税を収めるハンターにとっては、獲物がいなければ遊びにならない。

税を取って、遊びとして有害鳥獣を駆除するなら、まだ、一面の妥当性があるものの、お金をかけて繁殖させて、それを放鳥するならば何を目的としているのかが不明な気もするが、ハンティングという遊びをお金で買えるということで「市場価値」化している。

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アフリカでは、もっと巨額な費用を取ってライオンやサイをハンティングさせている。結果として、お金が欲しい人達は換金性の高い動物を繁殖させるので、個体数が増えることにつながっているという。

お金を目的としてライオンやサイを繁殖させる。お金を払ってハンティングを楽しむ人達は満足をお金で買える。結果として貴重種が増える。

結果が良いようにも見えるが、根底にあるのは単なる「市場価値」であり「強欲」が原動力となっている。

いま、日本でもIRを巡って国会議員が逮捕されたりしているが、政治家の役割に「市場価値」をつけることで便益をお金で買うことができる。ただし、法で許されている範囲を逸脱すると「腐敗」となる。

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大臣室でお金を受け取っても、起訴されなければ客観的には「腐敗」にはならないのも不思議な側面を持つことも事実であるけど、なぜ、「腐敗」が起きるかといえば、権力には「市場価値」があるからである。

二酸化炭素をたくさん排出する国はお金で、二酸化炭素をたくさん排出しない国から相殺する権利を買うことができる。

同じお金をかけるなら、二酸化炭素を排出しない政策にお金をかけるべきところであるが、空気が清浄な国は産業が盛んになっていないことが一般であるので、途上国であることが「市場価値」を持つこととなる。

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競争」があるから向上することは事実である。ナンバーワンは、まさに「競争」を勝ち抜いた証である。しかし、オンリーワンも似たようなもので、まず、ナンバーワンはオンリーワンを内包する。

テッペンに登ること、唯一無二になることは、得てして「利己」のなせる技である。「利己」を極めていけば、当然の帰結として「利他」は希薄になる。あるいは、お金で「利他」を買えば済むこととなる。

ふるさと納税」なども、その最たる例であるが、結果としてモノとして提供した残りの部分は増収になるから地方は喜ぶし、納税したヒトはみすみすお国に召し上げられる税金の一部(寄付額の3割上限)が地方物産に変われば嬉しい。

しかし、これは高額納税者ほど、得られる実りも多いわけで、あたかも「利他」を装ってはいるものの「利己」そのもののであり、構造はアフリカのハンティングの例と全く同じである。

つまり、「市場主義」とは、行き着くと「」の切り崩しでしかなくなる。

美男美女には換金性があり、優秀な頭脳はクイズ番組でタレントになれる。なにをお金にするかで、状況によっては「」を換金することとなり、結果として社会のモラルがトータルで低下することは必至である。

格差が広がり、片方には食うにも事欠く人々がたくさんできてしまえば、彼らは食うためにアンモラルなことをせざるを得なくなる。

かたや、食うには有り余るほどのお金を手にすれば、通常では手に入らないものをお金で手に入れようとすることで、本来であれば「市場価値」を有しないモノをお金で手に入れようとする。

つまり、市場主義とは、勝っても負けて向かうところは「」の希薄化でしかないことは自明である。許容するかしないかは、自分に関わり事態になるまでは「我関せず」という「利己」が現状を放置している。

競争は国家の礎であることは間違いがない。美男美女に換金性があるがごとくヒトには持って生まれた格差(能力や運)を否定することは合理的ではない。大いに競争をし、富を築くことには反論の余地はない。

ふるさと納税」のようなお為ごかしの政策ではなく、モラルの低下を招かないような富の再配分を政策として取り組まない限り、はては民主主義すらも毀損されかねない。

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しかし、まずいことに政治家は経済界との結びつきが堅固であり、かつ、どういうわけか保守を標榜する自民党が新自由主義の政策に依拠していることも格差の拡大を放置している。

そこで考えられることは、結果として社会が不安定になることで国民が選択を変えることを意図するようになるか、権力側がそうなる前に自浄するかの択一でしかないような気がする。おそらくは前者か。

しかし、得てして病と同じく気がついたときは手遅れというのが、世の常である。イチ国民としては、目の覚めるような救世主の登場を他力本願として待つしか手がないのが現実である。

せめて、それまで富がない分、非市場価値の世界で心豊かに過ごすことを意図していくしか選択はなさそうである。

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