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視点

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ウィリアム・ブレイクと啄木の砂

さぼ郎
ウィリム・ブレイクは、
To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower,
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour.

一粒の砂のうちに世界を、
そして野の花の中に天国をみる、
わが掌のうちに無限を、
そしてひとときの中に永遠を捉える。

一粒の砂の中に「世界」を見、自分の手のひらに「無限」を見、そして、ひとときに「永遠」を見る。

流れは美しいと思います。

石川啄木は、
頬につたふ
なみだのごはず  涙をぬぐわず
一握の砂を示しし人を忘れず

ここで示している「一握の砂」とは何か? 砂浜の中の「一握の砂」が示しているものは、無限の中の有限。あらゆる可能性の中の「自分」。悠久の時間の中の一瞬。

この句は、句集「一握の砂」の2番めの句として挙げられています。この句がイ番目です。
東海の小島の磯の白砂に
われ泣なきぬれて
蟹とたはむる

磯の白砂」の次の句として何が言いたかったのか?

それは人、様々の解釈でいいのだと思いますが、「涙をぬぐわず一握の砂を示した人」と「砂浜で泣き濡れる我」との対比が、胸に迫ります。

そして3句目には、
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握にぎれば指のあひだより落つ

ブレイクが見る「砂粒の中の世界」には永遠や無限という「可能性」のような観点がありますが、啄木の「」には、もっと深い観点が潜んでいるように感じます。

虚無」を句にしているようでもありますが、
大といふ字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来きたれり

死ぬことをやめる「」でもあり、
はたらけど
はたらけど猶わがくらし楽にならざり
ぢつと手を見る

啄木が「じっと見る」手のひらに、ブレイクは「無限」を見ています。啄木は砂浜にいて、一握の砂に「有限」を見ています。

坊っちゃんの時代」という漫画があって、第一巻は夏目漱石が中心。第二巻は森鴎外。そして朝日新聞の校正係の石川啄木がちょっと出てきますが、サブの主人公は二葉亭四迷になります。啄木は四迷の校正をしたのだそうです。

その二葉亭四迷の書いた「浮雲」を今読んでいますが、明治という時代、それも早々の時代には、文化があり文学があり風景があったように思います。だからこそ、そうそうたる人材を輩出できたのだろうと思うのです。

最後にブレイク。
What is now proved was once only imagined.
かつて想像したものが、今の世に実現している

漱石や啄木や四迷や一葉や晶子が想像した世の中に、現在はなっているのでしょうか?

砂粒よりも軽いワタシが断言できることは、彼らを超える「文学」は、この日本が日本である限りにおいては、今後未来永劫、生まれることがないということです。根拠はありませんけど。

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