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「トランクの中の日本」を借りてくる

さぼ郎
詳しい経緯や話を知りません。フランシスコ教皇が「焼き場に立つ少年」の写真をおととし、平成29年の年末、みずからの署名と「戦争がもたらすもの」というメッセージを添えて、教会関係者に配布するよう指示したことから注目を集めたという記事を目にして、早速図書館から借りてきました。

ジー・オダネルという人が原爆投下後の長崎と広島の写真を撮っています。

この写真をアメリカで展示するのには、すごい反発があったそうです。アメリカ人にとっては原爆は戦争を集結する最良の手段であったという意見が、未だに多数を占めているようです。

奇妙な老人の言葉を忘れず

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奇妙な風体に好奇心をそそられて下手な日本語で「写真を撮らせて欲しい」と申し出たら、流暢な英語で「どうぞ」と言ってくれたのだそうです。

彼はアメリカに住んでいて、家族を訪ねて日本を訪ねているうちに戦争が始まってしまってアメリカに帰れなくなったのだそうです。
息子のような君に言っておきたいのだが、今の日本のありさまをしっかりみておくのです。国に戻ったら爆弾がどんな惨状を引き起こしたか、アメリカの人々に語り継がなくてはなりません。写真も見せなさい。あの爆弾で私の家族も友人も死んでしまったのです。あなたや私のように罪のない人々だったのに。死ななければならない理由なんて何もなかったのに。私はアメリカを許しますが、忘れてくれと言われてもそれは無理です。
彼の言葉を聞いてオダネルは動揺したのだそうです。彼の言葉は何ヶ月もオダネルの胸に残ったそうです。

相生橋をのぞむ

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相生橋のそばに残っている建物は広島市立本川小学校のようです。おそらく、学校の小学生と先生は蒸発したでしょう。写真を撮っている建物が、標的だったようですが、実際には少し東にずれて「島内科外科病院」の上で炸裂しました。

その瞬間、病院にいた患者も医者も看護婦も蒸発しました。同時に、広島の9割を瓦礫の廃墟にし罪なき10万人の人々を殺戮しました。

学生時代の同級生のお爺さんが、原爆投下で有名になった「原爆ドーム」、正式名「広島県物産陳列館」の設計に関わったという話でした。主設計はチェコ人の建築家、ヤン・レッツェルという人だそうで、その手伝いを技師として携わったのだと思います。

大正4年に完成しています。大正8年には「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」では、日本で初めてバウムクーヘンの製造販売を行っているのだとか。というのは、第一次世界大戦により青島で捕虜になったカール・ユーハイムが作ったというわけです。

当時の日本は、まだ、国際法を遵守し捕虜の扱いもとても紳士的だったようです。

日本の徳島県鳴門市大麻町桧(旧板野郡板東町)にあった俘虜収容所で、日本で初めてベートーヴェンの第九を全曲演奏したという話も有名で、映画にもなりました。

非人道的になっていくのは昭和の軍人が割拠し出してからのことで、それにはそれなりの理由もあるのでしょうけれど、繰り返してはいけないことなのに、未だに総括されていないのは、日本という国の民度の為せることではあると思います。いまだに従軍慰安婦とか徴用工とかで、くすぶり続けています。

空から見た長崎

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写真、ほぼ中央の建物は「活水学院」じゃないかと思います。浦上川の東側に滑走路「アトミック・フィールド」が見えますが、その北の橋を少し東に行ったあたりが爆心地です。

活水学院は、1879年(明治12年)、アメリカメソジスト監督教会婦人外国伝道協会の宣教師エリザベス・ラッセルによって創立された女学校を前身とする。1887年(明治20年)に初等科・中等科・高等科・神学科・音楽科・技芸部を置き、初等教育・中等教育・高等教育の総合教育機関となっている。

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とあり、ヨハネによる福音書4章14節から取っているのだそうですが、現実には原爆によって瞬時に蒸発した人も少なくなかったと思いますが、飢えや渇きで亡くなっていった人も多く、その人達は福音にあずかれなかった訳です。
当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊した
とあります。

少年は気を付けの姿勢で、じっと前をみつづけた

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この写真をフランシスコ教皇が「戦争がもたらすもの」として使っています。
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。
一度も焼かれる弟を見ることなく直立不動のまま弟を見送って、回れ右をして歩み去る。

このような結末を迎えたことの責任は誰が取ったのかは不明です。

このような結末を回避することはできなかったのかも不明のママ、戦後を迎え、今に至っています。

当時の天皇の孫が、新たな天皇になりました。元号も、昭和から平成、令和になりました。

長針と短針のおっかけっこも「時」の話です。元号が移り変わっていくのも「時」の推移でしかありません。

「時」の流れの中で起きたことは、実際に渦中であった人々は消え去り、文字としてしか記憶に残すことはできません。

文字の記憶から何が生まれ、何が忘却されるのかも、ワタシなどには到底思いも及ばないことですが、いまだに殺戮や人権侵害が耐えることがないことを鑑みるに、人類としての経験が生かされることは、思うほどに多くはないということのようです。

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