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雑感

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はじめてだったことなど

さぼ郎

■浅草

初めて浅草に行ったのは、うろ覚えですが小学高学年か中学の頃でした。

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仲見世から少し入ったところに骨董屋があって(いまもある)、そこで「天保通宝」を買いました。いくらだったかは覚えていません。

この「天保通宝」は間違いようのない偽物です。お店の主人は「間違いなく本物」とは言っていました。

当時、その骨董屋の真向かいに「ろくっろ首」の見世物をやっていました。

夜になるとキャバレーからお客を送り出しにホステスさんがたくさんいて、大人になったら行ってみようと思っていましたが、今の浅草にはキャバレーはありません。

ストリップ

はじめてストリップに行ったのは船橋でした。いまは亡き先輩の石田さんに連れられていきました。

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19歳頃のことです。

同じ頃、石田さんと吉原見物に行ったことがあります。いまは、ソープ街になっていますが、石田さんと言った頃は旅館街でした。「旅館」といっても遊郭作りの木造の建物で、どういうわけか旅館の前にはお婆さんが出ていて、通りを歩くお客に声をかけていました。

時代小説などでは「遣り手婆」といわれるような人たちなのでしょう。なんのために声をかけていたのかは不明です。

ちなみに、船橋にも長く遊郭作りの木造の建物が残っていました。

■新宿

新宿に初めて行ったのは、二十歳前後の頃と思います。

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冬でしたが、鉄道から駅に降りた時、肌着一枚温かいと感じました。当時の新宿は、歌舞伎町などを歩くと客引きが腕を捕まえたりしていた時代です。

「肌着1枚温かい」というと、千葉に峯岡トンネルというのがあります。ここも、冬には、トンネルのあっちとこっちで肌着1枚温度が違うと聞いたことがあります。

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たしかに、このトンネルを抜けると山の感じが変わります。

■六本木

六本木に初めて行ったのは、船場に入ってからのことです。船場というのは店舗の設計施工の会社のことです。

ちなみに、船場に入った時点で、「船場」という地名が大阪に実際にあることは知りませんでした。

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なんで六本木に行ったのかは忘れましたが、Gパンと作業服でした。服装のせいか、はたまた見た目のせいかは不明ですが、ディスコのチケット配っているお兄さんが、ワタシだけ避けて通行人に渡していました。

ワタシは間違いなくディスコに行かないと値踏みされていました。

■ペプシコーラ

ペプシコーラを初めて飲んだのは、弘前でした。当時、弘前の駅前にピンク色した農協があったのですが、その立地にイトーヨーカ堂を作るというので弘前に行ってました。

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現場の近くの喫茶店で東京の会社に電話をするのですが、交換から申し込んで電話をし、終わると、やおら料金の電話がかかって来るという仕組みでした。

その料金にペプシコーラの代金を乗せて領収書にしてもらっていたのでコーラ代金は、自分的には実質、只ということでした。

■エースコックのチキンラーメン

エースコックのチキンラーメン初めて食べたのは古野の家でした。小学校低学年のことでした。

そもそも、チキンラーメンは「エースコック」ではなく、「日清食品」のようです。

ちなみに、上皇后というのだそうですが、美智子さんの生家の日清は製粉のほうで、チキンラーメンとは関係がないようです。

長いこと、日清食品は日清製粉の子会社だと思っていました。不敬なことです。

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で、お湯をかけて何分かしてから食べるのですが、おとなになってからカップヌードルを初めて食べた時、このチキンラーメンの味を思い出しました。

古野といえば、当時、少年マガジンとサンデーが創刊されて、古野がマガジンで、ワタシがサンデーを買って、交換して読みました。当時の週刊の漫画は現在の文春や新潮みたいな製本でした。

■浦和

母の姉(つまり叔母)一家が住んでいたのが浦和でした。母に連れられて何回か行ったことが有りましたが、小学校1年になった時、一人で行くことになり、リュックを背負って浦和に行きました。

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京成八千代台から日暮里に行って、そこで京浜東北に乗り換えます。

当然のことですが、京浜東北にも上りと下りがあって、どっちに乗るのかわからなかったのですが、来た電車に乗ったら、たまたま正解で浦和に無事着きました。

叔母と従姉妹が駅で待っていてくれて無事に叔母の家に行けました。当時は、蕨(わらび)を出ると、次が浦和でした。蕨を出ると両側が田んぼでした。

浦和には毎年、夏休みになるとでかけて行って長逗留して、口うるさい従姉妹が「そろそろ帰ったら」と言われてから帰ってきていました。

■サンダル

就職は「船場」に決めて、問い合わせをした所、会社に来るように言われて、人事課長(江本さん)に会いに行きました。

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お話しして帰るときに、人事課長が言うには「会社に訪問するときはサンダルはまずいよ」とのことでした。

当時は、就職に対して今のような氷河期でもなかったので、そんなに気にしていませんでしたが、たしかに企業に訪問するのにサンダルはまずかったかもしれませんが、リクルートスーツでおめかしなどしなくてもいい時代でした。

■小切手

武蔵小山にムサシヤというメンズショップがあって、船場として、そこの仕事をして集金に行きました。小切手で20万円でした。

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小切手をもらってウンコがしたくなって喫茶店に入りました。本に小切手を挟んで用を足してから本をチェックしたら、小切手が見つからないのです。

当時の給料は3万くらいだったと思います。気が動転して何回見ても小切手が見つからないのです。

おそらく心拍数が相当上がっていたことと思います。

冷静になって、もう一度本の最初からチェックしたら見つかりました。もとからあったのに、慌てているから何回見ても見つからなかっただけのことで、ウンコをしている間に、20万円を無くした喪失と、20万円を拾った獲得を味わったことを、いまだに忘れられません。

小切手といえば、池袋に本店があったユウキヤというメンズショップの仕事をして集金に行きました。

端数処理などがあるので白紙の領収書を持っていって、最終金額を手書きします。

領収書には何万円かの収入印紙がはられていました。

で、最終金額が確定して領収書に金額を書き込んだのですが、見事に失敗してしまいました。
¥1,000,0000円
になってしまいました。

経理の担当者が社長のお嬢さんで、「訂正印でいいですよ」といってくれたので事なきを得ました。カンマに訂正印を押して、
¥10,000,000円
こんな感じで受け取ってもらえました。

こんなことでも、人の人情に触れることができた時代でした。

おしまい

あえて、披露するような有用な話のネタは、持ち合わせがありませんが、些末な話はキリがありません。

昨日のことはろくに思い出せないのに、昔の話を思い出すようになれば、いよいよお迎えが近いのでしょう。

ここまで生きてみて思うことは、生きてみるということは結局はこんなものだったということに尽きます。

いま、子持ち妻持ちの俳優が不倫したとかで、世間を騒がせています。彼の義理の父親も不倫していましたから義理の息子を叱ることもできないというブラックな事態になっています。

」には「報酬」があることで種が維持できてきました。その報酬の正体は「ドーパミン」なのだそうです。何かをすることで、ドーパミンが分泌されることで「やめられない、とまらない」状態になってしまいます。

倫理」に照らすまでもなく、自分の歓びが他人の不幸になるような行いは、人間としてまともな感情を持ち合わせている限り「禍根」となります。

人間は他者の気持ちを慮(おもんばか)れるようになったことで社会が営めるようになったのだそうです。

とはいえ、徳川家斉が産ませた子供の数は53人。嵯峨天皇も50人と言われています。彼らは、家系を守るためと言うよりはタイガー・ウッズもかかったという「依存症」であり、ドーパミンが抑制を利かなくさせていたとしか考えられません。

家斉や嵯峨は「側室」といって、決して「不倫」のような人後に落ちる話ではないようですし、女中だろが八百屋の娘だろうが、男の子を生みさえすれば「お部屋様」になれたわけですから、どっちもどっちで他人が口出しをする話でもなさそうです。

ちなみに、ウィキペディアでは「不倫」ではなく「姦通」として解説されています。「密通」なんて言葉もありますが、ようは抑制すべき欲望のコントロールのことで、人間としての感情と動物としての情動の、どちらに近い意志を持つかでアウトプットが異なるわけです。

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判断の基準は、「得るもの」と「失うもの」とのバランスなのですが、情動が上回っていると目先に目がくらみ欲しいものは手に入れなくては済まなくなります。

そうした冷静さを失うことも種の保存には必要だったのでしょう。

政府は公認の賭博場を作ろうとしていますが、博打にも依存症があって、ドーパミンのお誘いは人間の意志ではとても打ち勝てないようですが、安倍内閣と官僚達はそんなことより、利権が欲しいことにドーパミンが分泌されているようです。

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