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「インフルエンザの予防」から考えるマコトのありかた

さぼ郎
たまたまネットのニュースを見ていたら(2018.10.4)以下の記事を見つけました。
バーミンガム大学のアンナ・フィリップス博士の研究によると、午前中にインフルエンザの予防接種した場合、午後に接種したときと比べて、抗体が3~4倍増えることが分かったという。免疫力を高めるT細胞の働きが、午前中の方が活発であるためだそうだ。どうせ打つなら午前中の方が、ワクチンの効果をより生かせるということだ。
日本でのピークは例年1~3月なので、11月初旬に打てばこの期間をカバーすることなる。
これとて、ノーベル賞を受賞した本庶先生によれば9割は嘘と思ってかかったほうがいいかもしれません。

先生がおっしゃると真実味が増すから不思議です。

図書館から毎月、日経サイエンスを借りてきて読んでいるのですが、半分くらいは「本当かよ?」と思って読んでいました。「読む」というのは正確な表現ではなく、「眺めて」いました。

なぜ、「読む」ではないかと言うと、まず、文字量が多すぎること。通常、A4サイズに3段組で書かれており、文字も小さいので年寄りにはフレンドリーではありません。

そもそも、専門家が読むにしては内容がチャチだし、かといって、ド素人が読むには難しすぎると感じています。つまり、雑誌としてターゲティングができていないように思うのです。

ようは、趣味の自称「科学好き」をターゲットにしていると思うのですが、それにしては文字数が多すぎるのと、嘘臭いネタが多すぎると思っています。

それでも、書評はずいぶん参考にさせてもらっています。いまも、書評で見つけた切支丹屋敷から見つかった3体の遺骨の話(「江戸の骨は語る」)は、毎朝、読んでいますが、とても面白いです。

宇宙の話やダークマターの話になると、そもそもが何が本当なのかはわかっていないのでから、書きようもないわけだし、どれが本当であったとしても、「だから何?」という感じでしかありません。

しかし、悲しいかな「意識とはなにか」みたいな記事があると、A3見開きを、それぞれ片方ずつA3に拡大して読もうとしますが、結局は読むことなく裏紙にしてしまいます。

もう少し詳細にお話すると、日本人の学舎やライターが書いた記事は本当っぽいのですが、あちらのヒトが書いたネタは、よくよく注意しないと嘘っぽい話が多い気がします。

このことは、「input」と「output」で考えると整理が付きます。科学の、嘘か本当かわからないような話を無理して読んだところで理解ができるはずもないし、仮に「なるほど、そうだったのか」と理解したとしても、「output」には繋がりません。

完全なる自己満足にすぎず、「output」もないわけですので必ず時間の中で忘却していきます。つまりは、「チコちゃんにしかられる」を見ているのとほぼ同じなわけです。

食べるものを「input」とし、出すものを「output」としても、「input(満腹)」があればこそ動けるし、考えたり喋ったりできるわけです。その意味では「output」は残渣のことではなく「活動」のこととなります。

しかし、同じ「input」でも栄養価や養分で食べるのではなく、味や見た目の要素が不可欠です。

知識の「input」も同様で、行動に直結できる「input」などは滅多になく、ほとんどは摂取しきれず、忘却していくことが通常です。

本庶先生の言われる通り、自分で確かめること以外は、きっと「」ではないまでも、自分にとって「本当」ではないわけです。

では、樋口一葉や与謝野晶子の本を読むことは何なのだろう? と思ってしまいます。自民党議員の、それも日本会議系の人たち(最近では文科大臣)が、ほぼ必ずと行ってもいいように「教育勅語」を持ち出します。

夫婦して「教育勅語」が大好きな権力者へのラブコールなのでしょうけれど、平成の世において彼らにとっての「教育勅語」が「マコト」であるはずはないとは思うものの、なぜ、そんなに戦前の国家神道の時代の教育教義にこだわるのかが不思議です。なにか壮大な裏があるのでしょう。

国民から付託されている国会議員の信条として「教育勅語」が「マコト」の価値なのか、同性愛者は子を為さないから生産性がないとおっしゃった議員が「南京事件はなかった」とおっしゃる背景として、1937年に南京で立ち会ったわけではないので、その意味での「マコト」ではないわけです。

1937年当時に南京に派兵されていない限り、大虐殺があったというヒトでも、なかったというヒトでも、なにが「マコト」かといえばエビデンス(文献あるいはまた聞き)でしか無いわけです。

しかし、本庶先生が言うように、自分が確かめたエビデンスで無い限り、それが「マコト」であるとするには、少なくとも研究者でもない限りは、思想とか信条に大きく依存してしまいます。

トランプ大統領が何をしようが、共和党の議員はそれにおとなしく従っているようですし、官僚達も職務として遂行しているわけです。仮に共和党の議員がどれだけ優秀であろうが、官僚たちがハーバードやコロンビア大学を出ていようが、大統領の命令に従わないことはないわけです。

その大統領を選んでいるのは国民であるわけで、結局、「国力」とは権力者(時の王)を選ぶ「国民のレベル」と「経済力」によって示されるものでしかありません。

日本では今だに加計学園がくすぶっていますが、誰が考えたって内閣府のお茶坊主たちや官僚が忖度したことは自明ですが、時の権力者が法に触れたかは証明することが難しいわけです。

逆を言えば、このようなデタラメが起きたときの対処として、徹底的にお茶坊主や忖度官僚を糾弾することが権力者に求められている「公平と公正」なわけで、お茶坊主たちや大臣室で現金授受をしたような議員を腹心として重用していることからして、最高権力者に「マコト(誠実という意味の)」はないことが証明されています。

それでも、国民が選んでいることが、日本という国の現在の「国力」を示しているわけです。

世界では権威と称されているサイエンスやネイチャーですら、9割は嘘と言い切れる本庶先生の言葉は、とても重いものがありました。

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