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インパール作戦

NHK特集

さぼ郎
昨日のNHK特集で「インパール作戦」をやっていました。たまたま、今、栗原俊雄というヒトの書いた「特攻ー戦争と日本人」という本を読んでいます。

特攻

戦争に「美学」などがあるはずもなく、無謀な作戦、無能な上官の出す命令は「外道」でしかありません。

なかでも外道で有名なのが「インパール作戦」です。



牟田口廉也という司令官が引き起こした無謀な作戦で、上部軍である南方軍司令官や第15軍の参謀、隷下師団のほぼ全員が、補給が不可能という理由から反対したにも関わらず、剛直で単純な勇ましさだけの精神論で天皇誕生日の前にインパールを陥落せよという命令で押し切ったわけです。

牟田口廉也
wiki「牟田口廉也」にリンク ↑

作戦会議で反論や異論があれば、怒鳴りつけたり、挙句には左遷・更迭したりすることで、誰も意見を言わなくなったようです。

勇ましさ」とは何かと言えば、源平の時代のように大将同士が一騎打ちする覚悟があるかでしか無いわけです。あるいは、無謀なら無謀と言い続けるとか。

牟田口の作戦でなにが欠如していたかと言えば決定的に「兵站」でした。軍が作戦行動に出るためには、補給が不可欠です。参謀や配下の師団では、そのことを指摘して、牟田口の作戦が無理であると指摘しているのですが、牟田口は牛に荷物を運ばせて、運び終わったらその牛を食べればいいというような作戦でした。

しかし、牛に2千メートル級の山は登れず、却って足手まといになったようです。また、チンドウィン川(川幅600メートル)を泳いで渡れる牛も少なく、即座にこの作戦は頓挫したようです。

日本兵の死者3万人、傷病者が4万人という大失敗に終わりましたが、牟田口はとっとと内地に引き上げ、戦後21年後に亡くなりましたが、死ぬまで「部下の無能さのせいで失敗した」とはばからず公言していたようです。

ま、全てにおいて負けるべくして負けた戦争でしたが、特攻といい、インパール作戦といい、各地の玉砕といい、実に簡単に兵士を死なせ、その反面、作戦指導に関わった上官たちは戦後も生き延びているヒトの多さにも驚きを禁じえません。

陸軍大学でも、あまり兵站の学習はしなかったようですが、インパール作戦において、敵国となった英国では、アメリカの協力を得て、飛行機で物資を運び空中から補給したようです。

陸軍大学校
wiki「陸軍大学校」にリンク ↑

また、このインパール作戦では、「抗命事件」が起きます。インパールの北に位置するコヒマを攻略する命令を受けた第31師団の師団長であった佐藤幸徳中将は独断で撤退を決意します。
  1. 余は第三十一師団の将兵を救わんとする。
  2. 余は第十五軍を救わんとする。
  3. 軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす。
さらに司令部に対しては「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と打電して退却しました。

佐藤幸徳
wiki「佐藤幸徳」にリンク ↑

佐藤中将は軍法会議で死刑を覚悟していたそうです。しかし、軍法会議で司令部の作戦指導を糾弾するつもりだったようですが、佐藤中将は軍法会議にはかけられませんでした。

一つには、佐藤中将を司令官に任命したのが天皇であり、佐藤中将が無能であったとするなら、それを任命し天皇にも責任の一端が及ぶことと、この作戦全体を許可した軍の責任も免れないことは自明だったからです。

天皇の責任論は、おそらく隠れ蓑で、軍部上層部の責任逃れに、天皇を引き出しているだけのような気がします。

「天皇」の存在には、そのような、天皇本人が意図もせず考えもしないような場面での利用が独り歩きすることもあったようです。

それは連綿と今に生きていてい「官邸の最高レベルが」という紋所をちらつかせることで、みんなが恐れおののいて、ひれ伏すのは、今の世の組織人においては同じです。

そこで、関わった将官たちは、それぞれ、それなりのポストを得て誰一人責任を追求されたヒトはいなかったようです。

これって、例の国税庁長官ご栄転においても再現されていると思いませんか?戦争に負けた原因の幾つかは「妙な精神論≒大和魂」「天皇という神格化されたごまかし」「武将というより官僚主義」などがあげられると思います。

そのすべての根源は「国家神道」にあるのではないかと思います。「神道」は宗教ですが、「臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とし、「臣民タルノ義務」に国家神道」をおき、いかなる宗教に対して超越させたわけです。

そしてそれを厳しく教育したのが、森友学園で年端もいかない児童に暗唱させた「教育勅語」でした。

明治維新を迎え、新政府は新たな国家の体制を作り上げなければ成らなかったわけですが、その中核に天皇を据えて太政官制という平安時代のような天皇親政と国家神道を持ち出しますが、時間とともにほころびます。

しかし、一部にその残骸が今に残っていて、時代の中で見え隠れしているような気がします。天皇が崩御したときの「大喪の礼」なども、どこに起源があるのかはよく分かりませんが、明治天皇と大正天皇と昭和天皇で行われていることだけは確かです。

元来、「モガリ」という儀式(偉い人の服喪)があるようですが、古事記、日本書紀には「モガリ」として記載はされているようですが、具体的な方法は書かれていないようです。また、大化の改新において、「薄葬令」によって古墳は事実上作られなくなったようです。

文化、宗教、思想、民族 いろいろな考え方があって、それは多様であって一向に差し支えがないことですが、二度と再びインパール作戦のような教条的な精神論で政治や軍隊を動かすことがないような、目に見える歯止めが日本国憲法であって欲しいです。

そうでなければ、先の大戦で、飢えで死んでいった英霊達に報いることが出来ません。

大西瀧治郎いわく「統率の外道」と称した特攻ですが、「修羅の翼」の中で、大西は「特攻の事を陛下が聞くに及び、きっと戦争を止めろと仰せられるに違いない」。で、戦争に止めるきっかけになったことで、500年、1000年の後の世の歴史に刻まれ、日本は再興することができるだろう と言っています。

ところが、その特攻を上奏した及川軍令部総長に陛下は「そのようにまでせねばならなかったのか。しかしよくやった。」と言ったと記録されているそうです。

この、陛下の「よくやった」がその後の特攻を推進させたようです。

1944年11月13日。梅津美治郎参謀総長が戦況報告をしたところ、「レイテ湾における陸軍特別攻撃隊万朶隊による戦果報告を御嘉賞になる」と述べているようです。

大西瀧治郎と思惑とは真逆の方向に進み始めていました。歴史に「もし」は許されないとはいうものの、1944年うちに戦争をやめていたら、、、。

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