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歴史的

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蓮舫議員から見た弥勒菩薩との違い

さぼ郎
昭和35年というと1960年のことです。今から勘定すると61年前ということになります。

京都大学法学部の2年生が広隆寺の弥勒菩薩の指を折ったことで事件になりました。彼が存命なら80歳くらいです。

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この像は、韓国からの渡来だろうとされています。そうじゃないという説もありますが、どちらにしても600年早々にあった像で、聖徳太子がもらったか推古天皇がもらったものということで、歴史的には「すごい」ものです。

仏像の詳しいことはわかりませんが弥勒菩薩が微笑んでいるのは「慈しみ」だからのようです。

蓮舫議員に菅総理に対して「慈しめ」という気があるわけではありません。



「言葉で伝えようとする思いはあるんですか」と問えば、「少々失礼じゃないでしょうか。精一杯取り組んでいる」と返していますが、話がかみ合っていません。

「精一杯やっていない」と糾弾したのなら「精一杯やっている」と返すのもありますが、変な展開です。

国会という舞台でのパフォーマンスとして、何が及第点かという観点からすると、野党の追及は「与党の支持者」に対して発信するべきです。

そうじゃなければ野党は万年野党でしかありません。

こんな体たらくの与党をあなたはまだ支持するんですか? という観点から攻めなければ無意味だし、逆に追及のきつさで批判が起きれば与党に塩を送るような結果になりかねません。

反省の弁も中途半端で、「思いが強すぎる」って、なんの思いなのでしょうか? 自己アピールへの思いならよそでやってほしいです。

言葉遊びへの思いがいくら強くても、そこにはメッセージ性がありません。

高杉晋作の残した言葉として有名な「面白き事もなき世を面白く すみなすものは心なりけり」というのがありますが、世間とはそもそも面白くもないのが常ですが、心の持ちようで面白くもできるという彼の哲学でしょう。

国会での追及も同様で、与党の上げ足ばかり取っていても観客は面白くもないわけで、どうやれば「面白く」できるかを考えるべきと思います。

面白い」というのは、芸なし芸人のつまらないトークのようなものではなく、「歓喜」「感激」を意味していますが、そのためには少なくとも相手を尊重し慈しむ姿勢が不可欠と思います。

野党は、与党支持者を反与党支持者に変えなければならないという使命が前提にあるべきで観ているものが「やるね!」と思って莞爾と笑うようなパフォーマンスを心掛けるべきように思います。

いくら糾弾しても森友ではだれも処罰されていませんし、桜を見る会では秘書が有罪になりましたが、肝心な首謀者は野放しで次の戦況で禊を済ませるようなことを言っています。

こんなに悪辣で無能な自民党から票をもぎ取れない野党は、与党を上回る能無しということになりそうです。

大臣室で業者から金銭授受があった甘利さんだって禊が済んで、今は重職を担っています。

結論から言えば、今の与野党では期待に応えられないでしょう。新星と新政党が必要な時代になりつつある気がしています。

この閉塞した時代を「面白く」してくれるのは誰でしょうか? 忖度官僚機構を叩き潰し、新生民主主義の実現が待たれます。

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