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千駄木ふれあいの杜と森鴎外

さぼ郎
本日、膀胱癌の抗癌治療で日本医科大学付属病院に行ってきました。ワタシの治療はBCGを6週間、続けて膀胱に注入するのだそうです。

なぜ、BCGなのかは知りませんが、BCGを膀胱に注入すると再発が抑えられるとのことです。ちょっと長いですが、インタビューフォームを見つけましたで引用いたします。
BCGの抗腫瘍性に関する研究は、1959 年に Old らがBCGによる動物の実験的腫瘍の発育抑制を報告したことが初めである。その後 1970 年代初期、BCGを用いた癌の免疫療法が多くの癌研究者の関心の的となり、白血病、悪性黒色腫を始め種々の固形癌のBCGによる治療が試みられた。しかし、初期の試験では優れた抗腫瘍効果を示唆する多くの成績が報告されたが、その後の無作為対照臨床試験では期待されたような延命効果が得られず、癌に対するBCG免疫療法の試みは沈静化していった。
そのような状況の下で、1976 年カナダ、クィーンズ大学の A.Morales らは表在性膀胱癌に対して、BCGが優れた効果を示すことを報告し、臨床試験が追試され、高い有効性が確立されてきた。さらに、わが国においても予備的な試験が行われ始めるようになった。
ということで、そもそもは動物の腫瘍抑制がもとになり様々な癌への有効性を追求したがはかばかしくなく沈静化していたところ、1976年にカナダで膀胱癌への有効性が見つかって、現在に至っているようです

効果があるのは明らかなようですが、なぜ癌細胞を死滅させるかは不明な点が多いのだそうです。なぜ、他の癌には有効性がなかったのに膀胱癌だけには有効なのかも不思議な話です。

ということで、「イムノブラダー膀注用80mgを0.5瓶」注入してきました。これを注入すると2時間、小便をしてはいけないのだそうで、病院内で本を読んで時間を過ごしました。

この「2時間」小便をしないためには、朝水分を多く取らないことが肝心です。結構、2時間は厳しいですが、我慢して2時間後に結構大量に小便を容器にしてきました。

というのは、BCGを注入しているので、やたらとそこいらの便所で小便をするのはだめで、泌尿器科専用のトイレで専用の容器にしなくてはいけません。

ということで、病院を出てきたら12時になってしまったのですが、日本医大に入院中に気になっていた北側の森を探検してきました。

ふれあいの杜

このあたりは太田道灌の子孫が家光から賜った下屋敷があった場所で、現在で言うなら千駄木一丁目一帯に該当するようです。千駄木一丁目というと、日本医大から森鴎外の旧宅辺りまでの一帯になります。

その真中に森があります。ここを大田さんが文京区に寄付してくれたと看板に書かれていました。

看板

地図で表現すると、

森鴎外

こんな位置関係です。で、「ふれあいの杜」の脇の「お化けだんだん」という階段を登って東寄りに出たら、いわば尾根道で、それを「薮下道」とかつては呼んだらしいです。

お化け坂
これが「お化けだんだん」

薮下道を団子坂の方に行くと森鴎外が住んだ「観潮楼」があった場所になります。いまは、森鴎外記念館となっています。観潮楼」とは、ここから東京湾が見えたからだそうです。

ワタシ的には鴎外の「高瀬舟」は好きな小説ですが、「阿部一族」などは、いまの「安倍一族」同様に、あまり好きなお話ではありません。

森鴎外記念館

自動ドアが開いたタイミングで、中に張り付いていた鴎外の横顔の彫刻の写真を撮りました。

森鴎外

森鴎外は1862年生まれで、夏目漱石は1867年生まれです。そんなに年は離れていませんし、住まいもそんなに離れていません。ただし、生き方は大きく異なっています。

漱石はイギリスから帰って1903年(明治36)本郷区駒込千駄木町57番地に寓居を構えます。「」の発表が1910年(明治43)ですが、宗介が住んでいる場所は、このあたりだったような気がします。

当時は、このあたりから天の川が見えたのでしょう。話はそれますが、日本医大の前進は「済生学舎」といって、本郷元町1丁目66番地に開校しています。日本最古の医術開業試験予備校で野口英世が卒業しています。

野口英世は1876年(明治9)生まれで、1987年(明治30)に左手の手術をしてもらい、必須の診察ができるようになって21歳で医師免状を取得しています。

この済生学舎」が日本医科大学になるわけです。で、済生学舎」を作ったのが長谷川泰というヒトで、このヒトは越後は長岡の漢方医の長男として生まれていて、河井継之助に三人扶持で雇われています。

江戸に出て、西洋医学を志し佐倉藩の順天堂(佐藤泰然)で佐藤尚中に師事していましたが、戊辰戦争で長岡藩の藩医として河井継之助の最後を看取っています。

このことが、明治期の山県有朋に嫌われ、長谷川泰は、ことあるごことに山県有朋一派から妨害を受け、森鴎外も山形一派に与しています。済生学舎を標的とした「専門学校令」(勅令第61号)を発布し済生学舎を廃校に追い込みます。
維新の元勲と云われる人の中で、凡そ山県有朋ほど、幕末の政局を根に持って執着して忘れ得なかった人はいないと云われ、その私怨から逃れられず長谷川泰は済生学舎廃校宣言を行うが
済生学舎は東京医学専門学校として認可され、現在の日本医科大学になっています。

長谷川泰は、衆議院議員のときに「関西にも大学を造るべし。帝国大学一校のみでは競風が失われる」として1897年に京都帝国大学が設立されています。医学部開設にあたっては、予算不足を長谷川に訴えて文部省に掛け合い聖護院近く2万坪の土地を買収し医学部と附属病院を作っています。

長谷川泰が師事した佐藤尚中は、佐藤泰然の養子です。佐藤泰然の実の息子は松本良順で、彼は奥医師として家茂の治療などあたっています。近藤勇との親交もあり幕府陸軍の軍医、奥羽列藩同盟の軍医となり会津戦争後、仙台で捕まり投獄されるも、赦免され1873年(明治6)には大日本帝国陸軍初代軍医総監になっています。

森林太郎が軍医総監になるのは1907年(明治40)です。夏目漱石が「虞美人草」を書き出すあたりのことです。

人それぞれの生き方があり、時代の変化に応じた浮き沈みがあるわけですが、こうした人々の人生をかけた挑戦があればこそ、今の世が確立できているのだと思うと、せめてできることは彼らの文化に触れ、摂取することでしかありません。

図書館から借りてきたばかりの松本清張の本のタイトルが「鴎外の婢」だったのも、たまたまの偶然でしょうか。

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