PAGE TOP

取り組み

印刷する

山本周五郎の寒橋

さぼ郎
山本周五郎の「寒橋」という短編集を図書館から借りてきました。というのは、夏目漱石の「虞美人草」を読んでいたのですが、面白さが伝わらなくて、とりあえず小休止して山本周五郎に移行しています。

時代物の本として一番苦手なのが司馬遼太郎さん。なんだか歴史家になりそこねたような書き方で、小説としての筋立ての本流と、その本流に対する創造性がなんだか希薄な感じがして、その分、調べまくった史実(っぽい話)で肉厚にするものだから、読んでいるうちに、おもしろおかしい嘘八百が取り柄の小説のはずなのに、歴史的事実として錯覚してしまいがちなのが嫌です。

それと、史実に依存するあまりに創造のダイナミズムに欠けている気がします。

藤沢周平さんは、うまいし、創造性も堪能できます。それに底流に流れる「やさしさ」がうれしいです。

山田洋次さんが、渥美清亡き後、「男はつらいよ」の変わりなのかは分かりませんが藤沢周平を題材にした映画を作っていますが、これははっきりいってつまらないと感じました。

主題がミエミエで、藤沢周平さんの醸し出す「機微」が削ぎ落とされていて、無理やり時間の中で主題を確立しようとすることと、聴衆に感動を与えようとしすぎていて、とっても浅薄な内容になっていると思います。

山本周五郎は、人間の情をとても大切にした小説を書く人だなと、ずっと思っていたのですが、ずいぶん昔に読んだきりで、特に最近になって読みたいと思っていたわけではないのですが、夏目漱石を読んでいたら、急に読みたくなってしまいました。

沢木耕太郎さんが、選んで全4巻にしてある本の第3巻のタイトルが「寒橋」になります。

寒橋」は「さむさばし」と読むのだそうで、「小田原町から築地明石町へ渡したもので、京橋堀と見当堀が大川へ落ちる落ち口にあった」というから、どの時代だか分かりませんが実在したようです。

なんの花か薫る」という話があるのですが、救いようのない嫌な話です。ここまで救いようのない話を書くという意志と覚悟はすごいものだと思います。

実際に生きてくると、江口房之助のような、自分の発している害毒には全く感受性を持たない輩って、実は、少なくないように思うのです。

しかし、このように人間として稚拙な江口房之助のような人間は、きっと終生、自分の稚拙さや不寛容には気がつくことなく人生を全うするのだろうと思うのです。

仮にお新が、このような房之助と一緒になったとしても救いのない人生になったことでしょう。ちょっと情景は違いますが、樋口一葉の「十三夜」の原田勇とお関の関係のようなものになったことだろうと思います。

樋口一葉の朗読をずっとやっている小河内仁美さんの話しによれば、「にごりえ」で源七が女房のお初と太吉郎を追い出してしまうのですが、そのことが一葉の中で気持ちの整理がつかなかったのだそうで、そこで「十三夜」のお関は、原田の仕打ちに我慢ができずに家を出てきてしまいますが、息子の太郎を思って、どんなことにも耐えようと決意して原田の家に戻るという話です。

それが不幸でも、それを耐える決意ができれば、人間は耐えられるのかもしれません。が、お新を思うと、やはり房之助は許せないと思うと同時に、なぜ、なんの花か薫る」として最後に「卯の花」を書いたのかなと思ってしまいます。

卯の花」は蕪村が6句ほど俳句にしています。

卯の花のこぼるる蕗の広葉哉

薫る」は抽象的なかおるだそうで、匂いの香りではないそうです。「なんの花か薫る」というのは、お新のような、仕事としては遊女かもしれないものの心根が可憐で清純な女性を卯の花の、薫るような「」としたかったのだと思います。

落葉の隣」も含蓄があります。いくら腕が良くてもズルを覚えると、仕事で大成できないという以前に、人間として堕落していくという話。しかし、話はそれだけでは終わりません。

お久は当初、繁次が好きだったのに、繁次はお久が参吉を好いているものと思って、好きな素振りすら見せなかった。お久は繁次に好かれていないものと思っているうちに、堕落が見えてしまった参吉を、いつのまにか好いてしまっていた。

本当は繁次と相思相愛になるべきだったのに。周五郎さん、どうしたの? って聞きたいですが、どうしてもハッピーエンドにはしたくないようです。

茶摘みは八十八夜から始まる」は、重い話です。いくつかのテーマが書かれていますが、一つには酒癖や遊蕩。要するに欲に溺れてしまうと、自らの意思で離脱することが思いの外に難しいという、何となく分かる話です。

欲望は一旦絶たないと、より強い刺激を求めるようになっていきますし、良くは快楽と密接につながっているので、自分で考えるよりは難しいのでしょう。

そこに酒乱で取り潰しになった大名(本多平八郎の孫、本多政利)を預かるわけですが、そのお側に酒癖遊蕩に染まってしまった平三郎が付きます。

平三郎は、自分が酒癖遊蕩に染まった経験から本多政利を立ち直らせようとして街道の馬糞拾いを二人で始めます。大名が馬糞を拾うなんて、考えられないじゃないですか。

そして本多政利は、庶民と交わって饂飩を食べていると、庶民の話が聞こえてくるわけです。

幕府からは、本多政利の酒乱が収まらなければ詰め腹切らせるか毒殺をするつもりであった所、本多政利は平三郎と一緒に馬糞拾いをすることで、大名としての不幸から酒乱になったものの、そのことが及ぼした罪の大きさに目覚めるとともに、やり直すことではなく、潔く切腹する覚悟が決まるという話です。

これは読み応えがありました。

本を読み、まだ感動できるのは、江口房之助にならなかっただけでも、良かったと思いました。

現代社会はどこに向かうか」という本に書かれていたのですが、秋葉原で大量殺人を犯した犯人が、トラックで秋葉原に向かう途中、知り合いにいまから「秋葉原で大量殺人をする」と予告するメールをだしたのに、誰からも止めるどころか返信すら来なかったのだそうです。

生きているというリアリティは、いろいろあるでしょうけれど、家族や友人、仕事、同僚、趣味、感動などが不可欠で、第三者が自分を認知してくれることから自分の人生のリアリティが生まれるのだと思います。

英語覚えて、世界を股にかけてお金を稼いでも、本多政利のような空虚な人生になる可能性もあるわけですし、単に頭がいいだけで江口房之助のように、人情の機微や人間としての滋味にかけてしまっても、リアリティは喪失していくような気がします。

達成とか成就などというと聞こえがいいですが、これとて、単なる欲望でしか無いというのが莊子の指摘です。

キーワード