PAGE TOP

歴史的

印刷する

大鏡《8》 醍醐天皇

さぼ郎

六十代醍醐天皇

冶三十三年、女御、更衣二十一人、御子三十六人此内源氏六人。

頓活

次のみかど、醍醐天皇と申しき。これ亭子の太上法皇(宇多)の第一の皇子におはします。御母、皇太后宮胤子と申しき。内大臣藤原高藤のおとどの御女なり。

今昔物語「高藤の内大臣のこと第七」に面白い話として紹介されている。ようは、高藤が15、6歳のとき鷹狩にでかけて急な雨にあたり、雨宿りをする。そこにいた娘(列子、12、3歳とを朝まで契り、そのままにして数年後、その家を訪ねると5、6歳の女子がいた。

この子が後の藤原胤子で光孝天皇の第七皇子源定省と結婚するが、基経によって源定省が後続に復帰し宇多天皇となると、女御になり敦仁親王を産む。胤子が逝去した翌年に敦仁親王が醍醐天皇となり、胤子は皇太后になるという数奇な運命を持つ事となる。

高藤の父、藤原良門は若くして亡くなったため、高藤の出世も遅かったが、娘が宇多天皇の女御となり生んだ子が醍醐天皇になったことで、100年ぶりの内大臣になるが2ヶ月後に死去した。死後、天皇の外祖父ということで太政大臣を与えられる。

このみかど、仁和元年乙巳正月十八日に生れたまふ。寛平五年癸丑四月二日に東宮に立たせたまふ、御年九歳。同じ七年乙卯正月十九日、十一歳にて御元服し給ふ。又同じ九年丁巳七月三日、位につかせたまふ、御年十三。

位につかせたまふ:天皇になったということ

やがてこよひ夜の御殿よりにはかに御かぶりたてまつりて、さしいでおはしましたりける。「御手づからわざ」と、人の申すはまことにや。さて世をたもたせたまふ事三十三年。

御かぶり:天皇としての冠を自らかぶって出てきたということ
御手づから:ご自身の手により

この御時ぞかし村上朱雀院かの生れおはしましたる御五十日の餅、殿上に出ださせたまへるに、「伊衡の中将の和歌つかうまつりたまへるは」とておぼゆめる。

御時ぞかし:この天皇の時、つまり醍醐天皇の時
朱雀天皇:醍醐天皇の第11皇子。母は藤原基経の娘、藤原穏子
村上天皇:醍醐天皇の第14皇子。母は藤原基経の娘、藤原穏子。朱雀の同母弟
御五十日の餅:皇子が生まれると50日目にお祝いに餅を出した
伊衡:藤原伊衡。藤原南家。当代一流の歌人。酒豪
おぼゆめる:世継ぎが思い出して言うには

ひととせに こよひかぞふる 今よりは 百年までの 月かげをみむ

ひととせ:1年ということ
今宵を1年とするなら、今より100年後までの月影を見るような気がします
「玉葉集」には、帝が生まれて百日目の夜に詠んだ と書かれている
50日目なら、「五十年」になるところ「百年」としている

と詠むぞかし。御返りごと、みかど(醍醐)のしおはしましけむ、かたじけなさよ。

御返りごと:返歌
しおはす:「し おはす」

いはひつる 言霊ならば 百年の のちもつきせぬ 月をこそみめ

祝ってくれたその歌に「言霊」があるならば、百年の後も生き残るであろう「月(つまり自分のこと)」を見てほしい

御集など見たまふるこそ、いとなまめかしう、かやうのかたさへおはしましける。

御集:醍醐天皇の歌集
なまめかしう:優美
かたさえ:「かよう」は「このような」、「おはしましける」は「であった」
「かたさえ」が、今ひとつ不明であるけれど、脚注では「歌の道の才」と書かれている

「大鏡」では、醍醐天皇のことはさらっとしか触れていませんが、藤原氏との関係では、北家ではあるものの、良房-基経という本流からは少し外れている良門ー高藤というラインの、しかも、高藤が少年の折に鷹狩りに行った先の、雨宿りをした家にいた少女との間にできた娘が宇多天皇の女御になり、産んだ子が醍醐天皇になるという、摩訶不思議な天皇であることも影響しているのかもしれません。

高藤の妻となる宮道列子は宮道弥益の娘で、若くして死んだため醍醐天皇は宮道弥益の家を勧修寺とした。

その近くに醍醐寺があるが、この寺は空海の孫弟子が874年以開山している。醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与えてるとのこと。

なおかつ、醍醐天皇陵も、醍醐寺と勧修寺に近いところに作られているので今昔物語の話も、あながち嘘ではなさそうである。

頓活
醍醐天皇といえば、和歌をよくし、なおかつ摂関を置かず善政を敷いたことで名を残しているが藤原時平の讒言を入れて菅原道真を大宰府に左遷している。

ついでに言うと、醍醐天皇の父・宇多天皇は臣籍降下していた間に敦仁親王(後の醍醐天皇)も生まれていたので当初は源維城といっていた。このことも数奇なことだと思える天皇だなぁと感じます。

今回、秋篠宮が皇嗣になったそうで、浩宮から壺切御剣をもらうとかいう儀式をしていました。それがなぜ、平安朝の装束でやるのかは不明ですが、この儀式は敦仁親王が立太子の折に宇多天皇から剣を下賜されたのが始まりだそうです。

詳細の儀式の内容は一部が不明なのだそうですが、ともかく平安朝の雰囲気でやることが世間にアピールできるからなのでしょうが、ワタシ的には違和感というか不自然な気がしていますが、とやかく言うことでもないのでいいようにやっていただくしかありません。



キーワード