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雑感

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民主主義の危機

さぼ郎
世界史の針が巻き戻るとき」の第4章は「民主主義の危機」というタイトルです。

頓活

ここで、マルクス・ガブリエルは民主主義を定義していますが、なんだか、ぴんと来ない定義です。

逆に、「何でも言える権利」が民主主義だというのは間違っている というのですが、それは「言論の自由」に関する解釈であって民主主義とは異なるように思います。

当然のことですが、「何でも言える権利」とは誰も保証していなくて、「法に触れない範囲で」という制約が付きます。その「」というのは国によっても違いがあり、中国では習近平を批判すると捕まるようです。戦前の日本にも「不敬罪」というのがありました。

明確な「民主主義」としての納得できる定義はせずに「明白な事実の政治と呼ぶものに基づくべきもの」といいます。

しかし、これは重要な観点だと思います。疑義のある事実を明白にしようとせずに隠ぺいするのは独裁主義につながる危ない政治になります。

たとえば、森友学園の値引き問題と、それに関連する安倍昭恵さんの名前が出てくる決裁文書の改ざん問題などは、「異常な値引きがされた」「安倍昭恵さんの名前が出てくる決裁文書を改善した」という事実に対して、利害関係が全くない第三者を入れた調査をして「明白さ」「潔白さ」を証明しようとしないことのほうに不合理があることは明白です。

このことは安倍晋三さんの無関与を証明することでもあり、本当に関与していないのであるなら積極的に本人からも主張すべきことだったように思います。

これは民主主義の棄損であり、その棄損がなぜ起きるのかを考えると「民主主義」が機能していないからです。つまり、逆説的ではありますが、今の日本は「民主主義に覆われた非民主主義」だということになります。

選挙という民主主義的手法によってえらばれた国会議員が、政党という集団に属さなければならない事情があり、政党に所属するがゆえに政党の意向に逆らえなくなり、その政党を支配する党首の我儘横暴を黙認することになれば、これを「民主主義」とは呼ばず「独裁主義」としか呼びようがありません。

頓活

つまり、何がいいたいかというと、民主的な選挙によって国会議員に選出されるのはいいとして、政党に所属すると、「党議拘束」という縛りに拘束されるわけで、ここからは「独裁主義」の論理が生きてきます。

さらに党首が意に沿う人材を大臣閣僚に充てて、その下働きに意に沿う官僚を集めて内閣を構成するわけで、その内閣で閣議決定をすることで「集団的自衛権」などを国会を経ずに決めていけるなら、憲法改正などする必要もなく、「民主主義」はフリでしかありません。

さらに、民主的であるためには多様性を「排除」することはルール違反になりますが、そうなると「多様性を否定する」人も多様性として受け入れるのかというパラドックスが生じます。

東京都知事の小池さんが、一言「排除します」といったために「希望の党」から希望が喪失したという事例がありました。

頓活

このパラドックスでは「私の話は全て嘘」というと、本当に全て嘘なら、そのことは真実になるので「全て嘘」ではないことになります。このパラドックスにも似ています。

何人も排除してはならない」とする場合、「特定の人を排除」する人であっても排除してはならないのかということを考えてみなければなりません。

このパラドックスを解くためには2段階で考えるのだそうです。第1段階の「排除」には含んではいけない人を考える。そして第2段階で「排除」しなければならない人を考えるわけです。

例えば、ヒトラーはユダヤ人を排除しようとしました。そのユダヤ人を排除する普遍的な理由がありません。だから排除すべきではないわけです。で、第2段階で、ユダヤ人を排除しようとした人たちこそ「排除」すべきことには普遍的理由があるということになります。

頓活

このことを民主主義に当てはめるなら、民主主義を否定する人も民主主義的に受け入れるべきかといえば、「ノー」と言うべきことになります。

これが民主主義の本質になります。そして「ノー」か「イエス」かの基準は、「尊厳」を斟酌することが重要なポイントになりますが、「尊厳」という言葉が普遍的価値を有するのかは慎重に考える必要がありそうです。

というのはガブリエルによる「尊厳」の定義によると、「人間は、人間存在の概念に基づいて人生を送る」といっているので、これって、あまりに抽象的すぎるから普遍性を持ちえない定義ということになります。

とりあえずは、このあいまいな定義をもとに続けると「他の人の尊厳を棄損する人には、その人の尊厳も棄損せざるを得ない」ということになり、前出の第2段階が適用されることになります。

小池都知事の場合は、政治的に「排除発言」をとらえられて政敵にうまうま「排除」されてしまいましたが、「私を否定しない限り排除いたしません」ぐらいのコメントにしておけば政敵に上げ足を取られることはなかったと思います。

第5章から先は、次の人が予約をしているので、いったん返却をして2週間後に続けて読むこととします。

追記
ガブリエルはマイケル・ジャクソンがかつて自分の子供を窓から出してぶらぶらさせたことを、あたかも「放擲」のごとくにとらえて解説している部分があります。

ここの部分を違う説明をしてみると、もし狂人が高いビルの窓から赤ん坊を放擲しようとする場面に出くわした人間は、それがイラン人であろうがロシア人であろうが中国人であろうがジャングルの非接触民族であろうが、人ならみんな驚き、やめるように言うわけです。

これが人間としての「普遍性」です。

もし、ベランダで天皇皇后の「ご真影」を燃やそうとする人がいたとします。この行為に驚き辞めるように言う人は火事を懸念するからであって、「ご真影」であるかは無関係です。

現在の多くの日本人にとっても、「ご真影」であるかはさほどには関係しないと思います。

つまり「ご真影」であるかどうかは、人にとって普遍的価値を有しないことになります。

人ととしての尊厳において重要なポイントは「普遍性」にあるべきということです。



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