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雑感

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それをお金で買いますか

マイケル・サンデル

さぼ郎
著者について
マイケル・サンデル(Michael Sandel)
1953年生まれ。
ハーバード大学教授。専門は政治哲学。
ブランダイス大学を卒業後、オックスフォード大学にて博士号取得。
ハーバード大学の学部科目「Justice(正義)」は、延べ14,000人を超す履修者数を記録。
NHK教育テレビで『ハーバード白熱教室』(全12回)として放送

序章「市場と道徳」

市場は公共善を実現する最良の手段であると思われていた。しかし、市場は道徳から遊離してしまった。

市場勝利主義の核心にあるのは「強欲」であり、市場と市場価値という考えが本来的には馴染まない生活領域に拡大した。つまり、お金で買うべきでないものが存在することを道徳的限界として考え抜く必要がある。

すべてが売り物となる社会には、理由が二つある。

ひとつは不平等にかかわるもの。もうひとつは腐敗にかかわるもの。

すべてが売り物となる社会では貧しい人ほど大変である。お金で買えるものが増えるほど裕福であることが重要となる。お金を獲得するために必要な指標は「強欲」ということになり、結果として不平等(あるいは不条理)が一層蔓延することとなる。

もうひとつは腐敗。子供が勉強をすればお金を払うとすると、それは勉強ではなく労働となってしまう。戦争に傭兵を雇えば同胞の命は失わずに済むが国を愛する気持ちは薄れる。大学の入試を寄付金の額で決めれば収益性はあげられるが大学の威厳と入学の名誉が失われる。

市場は、時として大切にするべき非市場的価値が、市場価値に押しのけられていくこととなる。

なにもかもが売りに出される社会において、われわれが払う代償を考えることも必要な時期に来ている。

第一章 行列に割り込む

お金を払って並ぶという行為はアメリカのみならず中国などでは日常化している。

頓活

アメリカにはコンシェルジェ・ドクターという医療の仕組みがある。患者はドクターに年会費を払うことでドクターへのアクセスが24時間可能になり、必要に応じて専門医の手配までしてもらえる。ドクターにとって多くの患者を見なくて済むと同時に収入の安定を図ることができるし、患者のほうは医院で待つことがない。

つまり、他人の権利を侵さない限り、何でも自由に売り買いすべきであるという考え方には、売り手と買い手に利益をもたらし社会的効用が高いという考え方にもなる。

たとえば無料の観劇が開催されたとして、その劇が非常に人気が高いとすると、人は何日も前から並ぶこととなる。それを代行業者にお金を払って並んでもらうとすると劇の主催者は「無料公演なのだから馴染まない」というかもしれない。

しかし、何日も前から並べる人は「時間」という優位性を持っているわけで、それをお金で買おうとする人には時間がない。だから時間をたくさん持っている人にお金で並んでもらうということは「時間」と「お金」が交換されるだけの話でしかなく、無料公演をしている劇場とは、なんら関わらない話である。

第二章 インセンティブ

毎年数十万人の赤ん坊が薬物中毒の母親から生まれる。ノースカロライナのバーバラ・ハリスは、薬物中毒の母親が避妊処置を受ければ300ドルの現金を渡すというプロジェクトを始めた。

頓活

批判者は、道徳的に許されるべきものではないと反対する。ナチスの優生学と異なり、一切の強制はなく薬物中毒者の生殖能力をコントロールするという「」に対する対価が支払われるという効率に対して、批判者が続出する。

近年の経済学では、生活のあらゆる領域において、人間の行動は目の前にある選択肢のコスト利益を比較検討し最大の効用を与えてくれる選択肢を選ぶことで、行動が決まるとする。

避妊と違う例を挙げると、学校での成績優秀者にドジャースの無料チケットをプレゼントするならば、これで教育改善とすることができるだろうか。本を1冊読むと2ドルもらえるとすることで読書習慣が身に付くだろうか。

成績のよい子に現金を渡したりチケットを渡してみても、実は成績は向上しなかった。しかし、1冊の本を読むたびに2ドルもらえる子供の読解力スコアは向上させることができた。

テキサスでは、AP試験で合格点を取る生徒に100~500ドルの報酬に加え教師にもボーナスが支払われる。生徒の能力は向上しないが、プラス効果としてAP試験をクリアしようとマイノリティの家庭の生徒が多く受験するようになった。

インセンティブの額と成績(能力?)は比例関係にないことも分かった。

アメリカの大企業の80%は健康維持プログラムに参加する従業員に金銭的インセンティブを提供している。また、半数近くが不健康な習慣のある従業員にペナルティを課している。

フィンランドでは交通違反者は、その年収に応じた罰金を払わなければならない。

カーボンオフセットも、考えは似ている。CO2の排出量が多い国は、排出量の少ない国から排出する権利を買うことができる。つまり、空気を清浄にすることではなく、空気が清浄な国からCO2を排出する権利を買うわけである。

絶滅危惧種のクロサイを15万ドルでハンティグできることで、牧場主はクロサイを増やそうと努力し始めた。このことで誰も不幸にならない。セイウチも狩猟が許されていない動物であるが、イヌイットに対してだけは許可されている。この権利をハンターに売ることで現金収入を得、肉と皮は今まで通りイヌイットが使用する。カナダ政府は、そのことを許可した。

第3章 いかにして市場は道徳を締め出すか

ノーベル賞はお金で買えない。オスカーのトロフィーはお金で買えてもオスカーの称号はお金で買うことはできない。

頓活

お金で買えない賞や友人、お金で買えるが買うべきでない子供や腎臓。この間に、どれほどのハードルがあるのだろうか。

たとえば謝罪を専門のサービスとする会社があるとする。何か不始末があると、謝罪会社の社員が当人に代わって謝罪に行く。これは何かがおかしいような気がする。

保育園の迎えに来る親が遅刻した時に罰金をとることをルール化した途端に、遅刻する親が増えたという事例がある。そこで罰金の制度を廃止したが、遅刻する親の数は戻らなかった。

いくつかの例から考えると、人には利己心利他心があって、利己心が増えることで利他心が相対的に減少していくといえる。つまり、市場が強大になるにつれて、人は強欲になり利己心を大きくしていく傍らで利他心が希薄になっていくという構図だ。

第四章 生と死を扱う市場

ウォルマートは従業員に生命保険をかけている。それは従業員を養成するのにコストがかかっており、万一、死亡された時は、代わりの従業員を雇用し教育訓練しなければならないためとしている。

頓活

企業が従業員の同意なしに生命保険を契約することを禁じている州もある。

余命1年と言われた人の生命保険は死亡しなければ受け取れない。余命1年といわれた人は、生きてるうちにやりたいことがある。これを下取りしてまとまった金額を被契約者に渡し、投資家はその被契約者が死んだら差額を受け取るとしたら、どうだろうか。

死亡賭博というのがある。その年、有名人でだれが死ぬかを賭ける。参加者は15ドル出して誰が死ぬかを予想してリストを提出する。1等が3000ドルになる。

そもそも生命保険は何世紀にわたってヨーロッパでは禁止されていた。日本で最初の生命保険会社が登場したのは1881(明治14)年だった。

ライフセトルメント産業という業態がある。たとえば65歳以上の人の生命保険を買い取り、投資家に証券化して売る。この市場は住宅ローン証券が崩壊した後で失われた収益を取り戻してくれると期待されている。

売った人はその時点で一時金を手にできる。証券を買った人は、生命保険が有効な期間に被保険者が死んでくれれば儲かる。

第五章 命名権

かつてトイレの広告と言えば、怪しげなチラシが主体であったが、いまやトイレの壁は広告の場となり5000万ドル規模のビジネスとなっている。

頓活

かくのごとくで、あらゆる場所が広告の場となっており、それを無分別と呼ぶのか、文化と呼ぶのかは定義が分かれるところである。

ある夫婦が自分の子供の命名権をオークションに出品した。応札がなかったため不調に終わった。これが間違っていると指摘する根拠は、子供の同意を得ていないことを挙げる。しかし、どこの子供でも自分の命名において同意を求められることはない。

市場主義が入り込むことにおいて、なにが正しい規範なのかを考えると行き当たるのが「」という考え方である。よって、善の意味と目的を深く考えないと市場主義の腐敗と欲望によって変節させられてしまう。

商業主義が拡大していくと、私物化される世界が広がっていく。格差が広がる社会で、市場化されるものが増えるということは、豊かな人とそうじゃない人との生活が、ますますかけ離れていく。異なる職業、階層の人が出会う機会が減少していく。

つまり、自由な市場は、われわれがどのように生きたいかという総和でなければ、きっと、均衡が破れる日が来るのだろう。

感想

この人の「正義」の講義をNHKでみました。彼は学者という以前に名司会者としてのタレント性を感じました。

ようは絶対的な答えのない話題を軸に、様々な考えを引き出して考えさせるという手法です。発表する生徒は、例えて言えばホリエモンや橋下弁護士のように「あえて」他人とは違う意見を言おうと思う輩が出てきて議論を賑わせていますが、決して収束に向かうようでもありませんでした。

そのうち、異端な意見を発露した人は論点の矛盾を突かれると意固地になっていき、本来、その人のパーソナリティから逸脱した意見のために頭脳をフル回転させる。まさに荘子が言うがごとく「論破」に固執していくだけの無駄な努力であると感じました。

この本でも結論の部分に「善」が出てくるけれど、善だの正義だの道徳などは、今の中国見れば歴然だけれど権力におもねることが善であり正義であり道徳的であることになり、その逆は、捕縛され監獄に行くか行方不明になるのが現実。

とはいえ、この本で取り上げている引用は、考えさせられるポイントを突いている部分も多少はあるとは思います。

「自由な市場は、われわれがどのように生きたいかという総和でなければ、きっと、均衡が破れる日が来る」であろうから、だから、なにを、どのようにしなければならないかを示すのが学者の努めではないのかと素朴に思いました。



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