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歴史的

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大鏡 序《1》

はじまり

さぼ郎
さいつ頃、雲林院の菩提講にまゐりてはべりしかば、例の人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁二人おうなと行きあひて、同じ所にゐぬめり。
さいつ頃:先日
こよなう:かけはなれて
うたて:異様
翁二人とおうな:世継と繁樹と繁樹の妻
あはれに同じやうなるもののさまかなと見はべりしに、これらうち笑ひ見かはしていふやう、
あはれに:なんとも あたりか?
世継「年ごろ、昔の人に対面して、いかで世の中の見聞くことどもを聞えあはせむ、このただいまの入道殿下の御有様をも申しあはせばやと思ふに、あはれに嬉しくもあひ申したるかな。
翁:大宅世継 (190歳) ,夏山繁樹 (180歳) 
ただいまの入道殿下:藤原道長
あはれに:なんとも
今ぞ心やすく黄泉路もまかるべき。思しきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心ちしける。かかればこそ、昔の人は、物言はまほしくなれば、穴を掘りては言ひ入れはべりけめと、おぼえはべり。返す返す嬉しく対面したるかな。さてもいくつにかなりたまひぬる」
と言へば、いま一人の翁、
繁樹「いくつといふ事は、さらに覚えはべらず。但し、おのれは故太政の大臣貞信公の蔵人の少将と申しし折の小舎人童大犬丸ぞかし。主はその御時の母后の宮の御方の召しつかひ、高名の大宅の世継とぞいひはべりしかしな。
故太政の大臣貞信公:藤原忠平
その御時の母后の宮の御方:宇多天皇の母、光孝天皇の后
桓武天皇の皇子仲野親王の娘
藤原基経の異母妹、藤原淑子と親密であった
定省親王(後の光孝天皇)は臣籍降下した折に藤原淑子の猶子となった
宇多天皇は文徳天皇の兄弟で、文徳には
清和天皇-陽成天皇
へと続く皇統があり、通常なら文徳天皇の兄弟である定省親王が天皇になることはなかった
陽成天皇は藤原基経と確執があった
その理由には諸説がある
元慶7年(883)、宮中で殺人事件が発生し陽成天皇が何らかの関与があったものとされ藤原基経から迫られて退位した
次の皇統として文徳天皇・光孝天皇の父親の兄弟まで遡ることも検討されたが、諸々あって、文徳天皇の弟である時康親王が践祚して光孝天皇となる
光孝天皇は、いずれ陽成の系統に皇統が戻ると考え、自分の子は臣籍降下させていたが、陽成の弟に皇籍が移ると、その母である藤原高子と折り合いが悪かったため臣籍降下していた源定省を親王に戻して宇多天皇とした
されば主の御年は、おのれにはこよなうまさりたまへらむかし。みづからが小童にてありし時、主は廿五六ばかりの男にてこそはいませしか」といふめれば、
みづから:夏山繁樹
繁樹が子供だった頃に、世継は25,6の若者だった
世継しかしか、さはべりし事なり。さても主の御名は如何にぞや」といふめれば、
しかしか:そうそう
さ はべりし事なり:そういうことでした
繁樹太政大臣殿にて元服つかうまつりし時、忠平『きむぢが姓は何ぞ』と、仰せられしかば、『夏山となむ申す』と申ししを、やがて繁樹となむつけさせたまへりし」
などいふに、いとあさましくなりぬ。
太政大臣:藤原忠平
きむぢが姓:君の名は
あさましく:驚くばかり
誰も少しよろしき者どもは、見おこせ、居よりなどしけり。年三十ばかりなる生侍めきたるもの、せちに近く寄りて、
よろしき者ども:多少は物事がわかる人たち
生侍めきたるもの:老練ではなさそうな侍
せちに:しきりに
いで、いと興あることいふ老者たちかな。さらにこそ信ぜられね」
といへば、翁二人見かはしてあざ笑ふ。繁樹と名のるがかたざまに見やりて
「幾つといふこと覚えずといふめり。この翁どもは覚えたまふや」と問へば、
いで:おやまあ
繁樹と名のるがかたざまに見やりて:繁樹と名乗る翁の方を見ながら
世継さらにもあらず。一百九十歳にぞ、今年はなりはべりぬる。されば繁樹は百八十に及びにてさぶらふらめど、やさしく申すなり。おのれは水尾のみかどのおりおはします年の、正月の望の日生れてはべれば、十三代にあひたてまつりてはべるなり。
さらにもあらず:いうまでもないこと
やさしく申す:遠慮して過小に言っている
水尾のみかど:清和天皇のこと。御陵の位置によって
清和天皇の上に3人の兄がいたが母が藤原良房の娘であったことから天皇の望みとは別に第4皇子の惟仁が貞観18年(876)清和天皇になる
けしうさぶらはぬ年なり。まことしと、人思さじ。されど、父が生学生につかはれたてまつりて、下藤なれども、都ほとり』といふ事はべれば、目を見たまへて、産衣に書き置きてはべりける、いまだはべり。丙申の年にはべり」
といふも、げにと聞ゆ。
けしう:たいして
さぶらはぬ:まちがってはいない
まことし:本当だ
生学生につかはれ:大学寮で学ぶ学生に使われていた
都ほとり:都にすんでいるとそれなりに見聞がひろまることをいう
目を見たまへて:文字が読めて
いまだはべり:いまだにある
丙申:876年
いま一人に、
「なほ、わ翁の年こそ聞かまほしけれ。生れけむ年は知りたりや。それにて、いとやすく数へてむ」
といふめれば、
繁樹「これはまことの親にもそひはべらず。他人のもとに養はれて、十二、三までははべりしかば、はかばかしくも申さず。ただ養父『われは子生むわきも知らざりしに、主の御使に市へまかりしに、又私にも銭十貫を持ちてはべりけるに、憎げもなき乳児を抱きたる女の「これ人にはなたむとなむ思ふ。
そひはべらず:実の親のそばで育ったわけではない
はかばかしくも申さず:はっきりと知っていたわけではない
子生むわきも知らざりし:子を持とうとするつもりもなかった
憎げもなき乳児:かわいらし気な赤ん坊
はなたむ:手放したい
子を十人まで生みて、これはし十たりの子にて、いとど五月にさへ生れてむつかしきなり」といひはべりければ、この持たる銭にかへて来にしなり。「姓は何とかいふ」と問ひはべりければ、女「夏山」とは申しける』さて十三にてぞ、おほき大殿にはまゐりはべりし」
おほき大殿:藤原忠平太政大臣
まゐりはべりし:屋敷へ奉公に上がった
などいひて、
世継「さても嬉しく対面したるかな。仏の御しるしなめり。年頃此処彼処の説経とののしれど、何かはとて、まゐりはべらず。かしこく思ひ立ちて、はべりにけるが、嬉しきこと」
それにしても対面できてうれしいことです。仏の御しるしです。年来、あっちこっちで説教がされているとのことですが、とくにどうとも思わず参加することもありませんでした。ありがたいことに思い立って参加してみたら、このようにうれしい対面ができました。
とて、
世継「そこにおはするは、その折の女人にやみでますらむ
といふめれば、繁樹がいらへ
みでますらむ:御出ますらむーおいでなさる
いらふ:答える
繁樹いで、さもはべらず。それは、はや失せはべりにしかば、これはその後にあひそひてはべる童なり。さて閤下はいかが」
といふめれば、世継がいらへ、
いで、さもはべらず:いや、そうじゃありません
あひそひて:連れ添って
世継「それははべりし時のなり。今日ももろともにまゐらむと出で立ちはべりつれど、わらはやみをして、あたり日にはべりつれば、口をしう、えまゐりはべらずなりぬ」
など、あはれにいひ語らひて泣くめれど、涙落つとも見えず。
はべりし時のなり:あの時分のままの
もろともに:一緒に
わらはやみ:おこり、マラリアにような病
あたり日:発作の出る日


頓活

醍醐天皇の母である藤原胤子と藤原高藤の出会いは今昔物語に詳しい。

高藤が15、6歳のころに鷹狩りに出かけ、突然の嵐に雨宿りした家の少女と契りを交わし、その1回の出来事で生まれた女子が藤原胤子ということになっている。

高藤の父親、良門は若くして死に良房が貢献したことで、内大臣まで登り以降、この系統は勧修寺と呼ばれる。紫式部も、この高藤の子孫になる。

ーー続くーー



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