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歴史的

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「大鏡」を読むにあたって

さぼ郎
そもそもを言えば「枕草子のたくらみ」という本を読んだことがきっかけになっています。

枕草子」といえば清少納言の文学日記程度に考えていましたが、登場する人物は、まず、主人公が藤原定子で、その父である藤原道隆、弟の藤原伊周、そして道隆の弟で、定子・伊周の叔父である藤原道長あたりが中心的な人物として登場してきます。

というよりは、端的に言えば藤原道隆一家の繁栄と没落の物語を、清少納言が美しくユーモアを織り交ぜて後世に残した文学作品で、千年経って歴史文学としての価値も放っている作品となっています。

ほとんどの登場人物は歴史上に実在し、ノン・フィクションに文学的加飾が付されていると思えるので、当時の人物像を彷彿とすることができました。

そこで、さらに「藤原氏」という新書に手を付けたのも自然な流れと言えました。鎌足から道長、そして道長の子供等あたりの時代に、白河天皇が現れ摂関時代から院政へと権力の中枢が移っていくことも、面白い出来事だったと感じました。

寄り道的な話となりますが、鎌足から道長という流れは、今昔物語の「本朝」で「世俗」の冒頭を飾る逸話でもあります。

そこに来て、この「大鏡」が出てくるのは、流れからしてとても自然な感じであると思っています。

成立

鎌倉時代(1190~1198年)には「大鏡」という書名が成立しているそうです。」という字が使われている背景として、

あきらけきにあへば過ぎにしもいまゆくすゑのことも見えけり
すべらぎのあともつぎつぎかくれなくあらたに見ゆるふるかも

という歌のやり取りがあって、ようは過ぎた昔も、これからの未来も鏡に映し出しているのが、この書であるということから命名されているようです。

頓活

とはいえ、当時、文字が書けたのは貴族か坊主でしかなく、道長をよく知っている人となると、大方、その周辺の人物であろうとされています。

後一条天皇の部分で「今年万寿2年」という記述があり、それは「1025年になるので、大方、それ以降であろうとされています。解説では白河天皇による院政と「大鏡」の成立に関係があるように書いてあるので、そうだとすると1072~1086年頃である可能性もあるようです。

構成と内容

」は、180歳を超える翁達が語るところから始まる
帝紀」は、文徳天皇から後一条天皇までの14代176年間を述べる
大臣列伝」は、冬継から道長までの20人の大臣列伝である

語り手の「大宅世継」は清和天皇御譲位の貞観18年(876)に誕生し万寿2年(1025)で190歳ということになっています。

相方の「夏山繁樹」は生年不詳で藤原忠平が少将であったころに小舎人として仕えたとして当年180歳となっています。

頓活

雲林院の菩提講に参加した聴衆の中の会話を著者が聞き取って書き残したという体裁になっています。

著作の目的

主目的は藤原道長の比類のない栄華の有様を語ることが主目的となっています。この目的のために多くの帝・后、大臣・公卿について話が及んでいるのだそうです。

大臣を冬嗣から始めているのは、冬嗣の長女である順子が、仁明天皇の女御となり文徳天皇を生むところを、道長栄華の起点としているからです。

道長の栄華は、三后一東宮妃の父となったことにつきます。長女の彰子は、一条天皇の中宮で後一条天皇・後朱雀天皇の母となる。次女妍子は、三条天皇の中宮、威子は後一条天皇中宮。嬉子は、後朱雀天皇の東宮時代の妃で後冷泉天皇の母。

ちなみに、長女彰子が中宮となった一条天皇の最初の中宮が定子で、この夫婦のほのぼのとした宮廷の出来事を書いたのが「枕草子」である。定子の父親が道隆で、彼が糖尿病で亡くなるところから道隆系の没落が始まります。

その背後には道隆の妹の詮子で道長の姉の影響も隠せない。詮子は円融天皇の后で一条天皇の母であった関係で、藤原氏の実権を藤原道隆長男の藤原伊周が継ぐはずのところを道長に流れを変えています。一説では詮子が一条天皇に泣いて頼んだともされています。

これは詮子が道隆を好まず、道長が好きだったことによります。この流れの変化は、その後の道長の権勢に大きな影響を与えているといえます。

一条天皇は定子が心より好きだったと思われ、逆に彰子への愛着は感じられません。定子が次女を生んだその日に没しているが、その嘆きは悲痛なほどであったけれど、結局は彰子に男児をなしています。

その彰子が、一条天皇亡き後、宮中に君臨している姿は当然のことながら「枕草子」からは伺えませんが、皇太后として宮中で君臨していた時代があったようです。

定子が没落した時代に道長派(というか、実際に道長が)から清少納言の引き抜きがあって、その下りも「枕草子」には美しくも悲しく書かれている。

藤原道長の有名な歌

この世をばわがよとぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば

とは、満月に欠けたところが一点もないほどに、自分の人生においても欠けたところが一つとして思い当たらないという道長の実感である。

頓活

実際には明子の生んだ能信という四男が、結果として藤原一族の摂関時代を終焉させる側として作用することとなります。それも、道長の招いたことであったわけです。

道長は運が良かったこともあり、生まれた女児も優れていたし、男児もそれなりに時代に関わる能力があったけれど、道長自身に運を引き寄せ、開花させるだけの力があったことは見逃せません。

単に時の流れで、その軽さが官僚たちや裏でやりたい放題をしている影の実力者たちの都合がいいだけのお飾りのようなチャラい総理大臣や、その副総理などとは大違いであったことは間違いのないところです。

気迫があった、不遇にも耐えた、寛容であった、人情の機微に通じていた、人あしらいが上手であった、詩歌に優れていた、容姿が素敵であった と言われています。

余談ですが、清少納言は若かりし道長に憧れていた時代もあったとか。

しかし、目的のためにはアングロサクソンのように、やりたいことを貫徹する冷酷さがあった人だったといえそうです。例えば定子が生んだ一条天皇の第一皇子である敦康親王を天皇にはさせず、彰子が生んだ第二皇子の敦成親王を後一条天皇にしていることなど、流石にやりすぎと感じるところもありました。

とはいえ、どれ一つとっても、今のモリ・カケ・サクラ・クロカワのチャラい総理大臣とは比較になりません。無能でチャラいだけが(官僚たちにとっての)「取り柄」の空疎な総理大臣として「長さだけ」で歴史に名を残すことはあるかもしれません。

頓活

せっかく総理大臣になったのだから、国の舵取りを精一杯することで、長さだけではなく、一つや二つくらいは貢献できたはずなのに権力に酔いしれて忖度三昧の挙げ句に官僚のモラルまで低下させてしまったようです。

しかし、無能ゆえの気楽さなのでしょう、自分や自分の妻がしでかしたことになんの気兼ねもなく屈託なく笑え、よく眠れるようですから、無能であることも本人にとっては都合が良かったかもしれません。

ウツセミの今の世をはかなむよりも、千年前の男たちの生きざまでも見たほうが、よっぽど痛快じゃないでしょうか。

別の本では、「大鏡」は平安男性文学の最高傑作であると書かれています。さらには、現代の政界、財界、ビジネス界を問わず生きて戦う男性のその生き様を示唆するバイブルであるといえると断言しています。

今更、戦う男の生き様を読んだところで参考にするものは全くありませんが、平安時代の人間の息遣いに触れられることは楽しみであります。

どうやって読みすすめるかを思案中ですが少しずつやっていけば、いずれは読破できるでしょう。


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