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「硝子戸の中」という明治の世界

さぼ郎
夏目漱石の「硝子戸の中」というエッセーが好きなんです。何気のない書き方が、いい感じと思っています。堅物の兄貴が死んでから、柳橋の芸者と思しき女性が甲府から訪ねてきたり、母親が御殿女中だった頃と思しき晴れやかな着物があったりで、主として幼少から青年期にかけての記憶をたどっていく明治早々の雰囲気が好きです。

たまたま、永井荷風が好きな人がいて、その人に送ってあげようと思って荷風の「監獄署の裏」を青空文庫から探してきてワードに貼り付けました。

荷風の父親が明治35年に市谷余丁町に土地を買って屋敷を作る。しかし、このときには通りを挟んで向かいの谷町には市谷監獄がありました。市谷監獄は明治8年に小伝馬町牢屋敷から移転していたとのことです。

ここで明治初年に頃には山田浅右衛門が斬首をしていました。

さらに、明治36年に鍛冶橋にあった鍛冶橋監獄署が隣接する形で富久町に移転してきています。ここの塀はレンガ造りだったとのことですから、そのレンガは小菅監獄で焼いたものと思われます。

頓活

荷風が書いている「監獄署の裏」とは、おそらく東京監獄署のことと思います。この東京監獄では大逆事件の幸徳秋水らを処刑しています。大杉栄にも嫌疑がかかり千葉監獄から東京監獄に送られていますが、嫌疑不十分となったようです。

荷風は、この大逆事件が許せなかったようです。また、大逆事件に対して何もできない自分が許せなかった。おそらく幸徳秋水が乗っていたであろう馬車を見送っていて、自分の無力感を痛切に感じたものと思います。

そんなわけで、荷風の「監獄署の裏」を青空文庫からルビ付きテキストとしてダウンロードしてワードに貼り付けてVBAを動かすと、A4縦を上下2段にして縦書きに展開してくれる自前のツールがあるので、それを使ってPDFにして送りました。

その後に、そう言えばと思って夏目漱石の「硝子戸の中」を見つけて自分用にワードに展開して少しずつ読みました。

漱石は幕末の生まれで幼少時の記憶は明治早々の頃になります。「田辺南龍」について書かれている項があります。漱石によれば南龍は下足番だったとのことですがwikiでは御家人だと書かれています。

wikiで調べて見ると2代目のようですが、彼が生まれたのは1839年だから、漱石よりも28歳も年上になります。日本橋三越の向かいにあった寄席に出ていて、そのころの寄席の雰囲気が描かれています。

ちなみに、「道草」では養父に連れられて閉店間際の三越に行ったシーンが書かれていますが、丁稚が一斉に雨戸を締め出すと店内が暗くなり、雨戸を閉める音とで幼少の漱石が泣き出したことが書かれています。

当時の三越は百貨店ではなく呉服屋だったようです。

その同じ項に「室井馬琴」が書かれています。この室井馬琴は4代目とwikiに書かれています。彼は1853年生まれなので漱石より14歳年上になります。

全く関係ありませんが、初代の宝井馬琴のお墓は台東区鳥越にある信入院だそうで、比較的よく通る道筋にあります。この近くにある蔵前小学校(浅草寿戸田学校下等小学校第八級)に漱石が入学していたことがあったようで、小学校の玄関脇に石碑が置かれています。

漱石によれば、
私はたった一人の当時の旧友を見出した。私は新富座へ行って、その人を見た。またその声を聞いた。そうして彼の顔も咽喉も昔とちっとも変っていないのに驚ろいた。彼の講釈も全く昔の通りであった。進歩もしない代りに、退歩もしていなかった。20世紀のこの急劇な変化を、自分と自分の周囲に恐ろしく意識しつつあった私は、彼の前に坐りながら、絶えず彼と私とを、心のうちで比較して一種の黙想に耽っていた。
進歩もせず、かといって退歩もしない」ことの価値を考えることなど、ついぞ有りません。特に漱石は幕末の江戸の匂いを存分に嗅いでいて、そのうえ、欧化する日本からイギリスに行って学び、帰国して、自分を含めて欧化していく時代の中にあって、幕末の雰囲気を眼前にすることで思わず、事の是非を比較してしまったのでしょう。

漱石より12年後に生まれた永井荷風も、この4代目宝井馬琴を絶賛しています。

漱石の実家は、牛込から高田馬場までの一帯の名主だったとかで、いまでも夏目坂など、地名に名残があります。
私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。
頓活

富久町に東京監獄を作っていた頃、荷風はアメリカからフランスへ洋行していました。同じ頃、漱石はイギリスで神経衰弱に架かって明治35年に帰国しています。

帰国して住んだのが千駄木、日医大の北の通りに住み、東京帝大の講師になります。小泉八雲の後釜であったことで騒動になったことと、第一高等学校の講師をしていて、藤村操を漱石がきつく叱責した数日後に華厳の滝に「曰く不可解」と書き残して自殺したことなどがあって、漱石の心が病んだようです。
今の私は馬鹿で人に騙されるか、あるいは疑い深くて人を容れる事ができないか、この両方だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている。もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。
荷風は、
私は次第々々に門の外へ出る事を厭い恐れるようになりました。ああ私はやはり縁側の硝子戸から、独り静に移り行く秋の日光を眺めていましょう。
二人の「硝子戸」は、年代も立地的距離も遠からずの位置にありました。文の美しさでは荷風が上回っていると思いますが、「彷彿」という力は漱石かなと思います。

頓活

なにを「彷彿」とさせるのかは、読む人によって違いましょう。



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