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歴史的

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江戸が東京になる

さぼ郎
明治になるまでの都は「京都」であった。西暦でいえば1868年10月23日に、旧暦の9月8日に明治元年となり、翌明治2年に首都を京都から東京に移していますが、「遷都」したわけではなく、このことを「奠都(てんと)」と呼ぶのだそうです。

遷都」に関しては政府からも天皇からも、今に至るまでなにも通告がされていません。

広辞苑では「首都」は中央政府がある場所で、「」は天皇がいる場所となっているとのことです。

江戸時代の中央政府といえば「幕府」ですが、日米修好通商条約を結ぶにあたって時の高級官僚、井上清忠と岩瀬忠震は、条約を締結するためには将軍、御三家、有数大名で決めた結果を天皇が裁可し天下に布告する必要があるとハリスに伝えています。

が、これは実質的な手続きではなく、単に時間を稼ぐための便法であったようです。

高級官僚からすれば、このようなまことしやかな手続きを示すことで悪質で低レベルな徳川斉昭や松平春嶽らを「国是」に従わせられると考えたようです。

また、彼らは一橋慶喜を買いかぶっていたことも事実のようです。違う味方をすると悪質で低レベルな徳川斉昭を黙らせる切り札として一橋慶喜を引き出そうとしたことも考えられます。

頓活
徳川斉昭

で、結果として堀田正睦と岩瀬忠震が京都へ出向き天皇と朝廷に承認させれば事はうまく運ぶはずでしたが、ところが天皇と朝廷が幕府の言いなりにならなかったことで、時代は異なる次元へと突き進むことになります。

岩瀬ら高級官僚は、大老である堀田ならなんとでもなると踏んでいましたが、ここで立ちふさがってくるのが井伊直弼でした。井伊は、なまじ大名やら朝廷やらに依存するような形を取ることは、即ち幕府の弱体を招くという危惧をいだきました。

そこで、一橋派(徳川斉昭と一橋慶喜ら)を弾圧します。ここから安政の大獄が始まり、水戸派に井伊直弼は暗殺(実際に殺害したのは薩摩武士)されることとなります。

と同時に天皇の許しを得ることなく井伊大老が主体となって修好通商条約を結び、一橋派を弾圧し、幕府に逆らう勢力を弾圧することから国内は騒然としてきます。

攘夷が盛んになり外国人が斬り殺されたりすることが多発しだし、幕府としてはなんとか国内をまとめるために孝明天皇が要望している「公武合体」と「破約攘夷」をなんとかまとめることで幕府権力の強化を図りたいと思っているところに長井雅楽の「航海遠略策」が持ち込まれます。
朝廷が頻りに幕府に要求している破約攘夷は世界の大勢に反し、国際道義上も軍事的にも不可能である。
そもそも鎖国は島原の乱を恐れた幕府が始めた高々300年の政策に過ぎず皇国の旧法ではない。
しかも洋夷は航海術を会得しており、こちらから攻撃しても何の益もない。
むしろ積極的に航海を行って通商で国力を高め「皇威を海外に振る」って、やがて世界諸国(五大洲)を圧倒し、向こうから進んで日本へ貢ぎ物を捧げてくるように仕向けるべきである。
そこで朝廷は一刻も早く鎖国攘夷を撤回して、広く航海して海外へ威信を知らしめるよう、幕府へ命じていただければ、国論は統一され政局も安定する(海内一和)ことだろう。
というような内容でありましたが、尊皇攘夷派からは、忌避されることとなり長州内でも藩論が分かれることとなります。

幕府は公武合体を進めるために長州藩藩主の毛利慶親を江戸に呼び、長井雅楽の建白を推進ししようとするものの、要するになんだかんだがあって毛利慶親が腰砕けになり、反長井派の工作が功を奏して長井雅楽は切腹することとなり長州は航海遠略策」から破約攘夷へと舵を切ります。

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毛利慶親

破約攘夷とは、井伊直弼が天皇に独断でアメリカと結んだ修好条約を破棄することであり、幕府を批判することそのものでした。

将軍家茂が朝廷に呼び出され、急進派公家と長州が幕府に攘夷を約束させアメリカ船を攻撃し、逆に撃破されたり、急進派が穏健派の小倉藩を処分しようとしたりして孝明天皇も急進派に腹を立て急進派を京都から追放しました。

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孝明天皇

王政復古には孝明天皇自体も不承知ではありましたが、破約攘夷として横浜鎖港で合意するかに見えましたが、一橋慶喜の裏切りに諸侯は呆れて会議を見切り帰国してしまいます。

その元治元年に、京都から追放された長州が、こともあろうに禁門を砲撃するという「賊軍」も「賊軍」の最たる「賊敵」になります。朝廷は、長州を追放する際に、有力公家も追放してしまったため、朝廷としての能力を失い幕府に依存するしかなくなります。

そこでおきたことは朝廷が幕府に対して長州を討伐せよと命じたことです。そこで慶喜は江戸に図ることなく諸大名に長州討伐を命じます。

そこで反対を唱えたのが薩摩の大久保利通でした。論点は明確。「国内戦争は回避するべき」という信念でした。これは、江戸をめぐる薩長と幕府が対峙した時の勝海舟の判断と同じです。

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大久保利通

第一次長州征伐で長州は謝罪と恭順を示しました。そこで止めればよかったものを慶喜と江戸幕府は限度をわきまえることができなかった。つまりは、イクサの落とし所を見極めることがデキなかったわけです。

この有様を見て大久保は、江戸幕府に従う藩が脱落することを予見し、まさに清国と同じような道を歩むだろうと見越したのだそうです。つまり第二次長州征伐を強行することで薩摩の離反を招く結果となりました。

戦争をしたことで米価が高騰し、庶民の生活を圧迫します。家茂が死に孝明天皇も死にます。慶喜は朝廷を蔑ろにし勝手気ままをしています。諸侯も呆れ果てていました。

そこで出てきたのが「王政復古」です。「もう、幕府はいらない」という意見で意思統一が図られつつあったことを見極めると慶喜は「大政奉還」を強行します。

慶喜には頭で物事を考え、思い通りに事が進むと思う奢りがあったため、混乱期のリーダーには結果として不向きな人材が将軍になってしまいました。

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一橋慶喜

国内戦争により物価が高騰することで消費が大幅に低迷し市場経済が壊滅的打撃を受けたにもかかわらず意味のない沽券にこだわることで人心が幕府から遠ざかってしまった訳です。

ここにおいて最高権力者は「天皇」になり、首都は「京都」になりました。

しかし、新政府首脳等は、朝廷から天皇を切り離すことを画策し、西周は「大阪」に公府を移すことを構想します。それが大久保利通の大阪遷都の土台となります。慶応4年に薩摩首脳は大阪遷都を真剣に考えていました。

そのときの大阪城は鳥羽伏見の戦いで燃え落ちており皇居にすることはデキなかったようです。

そこで、前島密から江戸遷都論が出てきます。蝦夷が開拓されれば江戸が帝国の中心になるという主張でした。

江戸城が無血開城されて10日目のことでした。

大木喬任と江藤新平は「江戸を東京と定める」ことで当方の人民も安堵するはずで東西の京に鉄道を引いて天皇が移動すればいいという両都論も出てきます。

天皇は明治元年に東京へ行幸し、明治2年に再幸してから、そのままとなっています。

当時の政府首脳はまだ若く、権威もなかったわけで、まず、天皇を朝廷から切り離し、諸藩の列侯達を抑え込むためにこそ、天皇に権威を持たせ、権限を集中させることで有無を言わせないことが、当時の政府首脳の青年たちにとっては至上のことであり、「天皇」という存在に大いなる使いみちがあったわけです。

ようするに「江戸」を「東京」という名前に変えたのではなく、「江戸に東の京を置いた」ということで、その「東京」を見に天皇が東幸しに行くという建前にしたわけです。

勝海舟は「主上、東府へ臨幸これあるべく、故に東京と称す」と書いています。

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勝海舟

ちなみに元号の「明治」は、松平慶永がいくつか候補を絞り、15歳の明治天皇が籤できめたという話になっています。

で、天皇が東京に来て江戸城を東京城とし「皇城」と呼びました。明治5年に全焼し明治21年に新宮殿ができると「宮城」と呼び、昭和23年に「皇居」と称されるようになったのだそうです。



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