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藤原伊周

さぼ郎
その昔、藤原伊周という貴族がいました。974年に生まれて1010年に死去していますから、35、6年の人生ですね。

父は藤原道隆で、摂政関白内大臣という肩書ですから天皇の次くらいの権力があったわけです。この父は朗らかな人で、酒の飲み過ぎによる飲水病、現代の糖尿病が原因で薨去します。

この道隆の父、兼家は道隆の同母妹を円融天皇の女御として送り込み一条天皇を生んだことから、一気に昇進したようです。権謀術数の世界ですので、他にも色々あるのですが、ともかく、父兼家を継いで道隆が関白になると、長女の定子を一条天皇に嫁がせます。

頓活

一条天皇の母親・東三条院は、道隆の実の妹で、伊周との関係は甥と叔母の関係なのですが、道隆が強引に伊周を内大臣に昇進させたことに対して東三条院すらも不満を持ったようです。

父・道隆が死去すると関白に道隆の弟の道兼が就きますが、この道兼が関白就任後7日で死去すると、関白の座を巡って伊周と叔父の道長との争いになります。

どういうわけか道隆の妹で、一条天皇の母である東三条院は、伊周の関白就任を嫌って、一条天皇に涙ながらに説得をし、道長が伊周を抑えて右大臣に昇任し藤原総家の氏の長者になる。

さらに、
太政大臣藤原為光の四女に通う花山法皇を、自分の思い人の為光三女が目当てと誤解した伊周が隆家と謀って道すがら待ち伏せ、彼らの従者が放った矢が法皇の袖を突き通す
という事件が発生し、
内大臣伊周を大宰権帥に、中納言隆家を出雲権守に貶める宣旨が下され、彼らの異母兄弟、外戚の高階家、また中宮の乳母子源方理らも左遷されたり殿上籍を削られたりと、悉く勅勘を蒙った。
伊周と弟の道隆は捉えられ、伊周は大宰府に護送される。定子は実家で第一皇女を出産し、999年には第一皇子の敦康親王を生むけれど、定子は皇后となり中宮には道長の長女・彰子になる。一帝二后になる。

伊周は東三条院が病が快癒しないため大赦が出され帰洛し、1000年12月に定子は第二皇女を生むと、翌未明に崩御。

誰もみな 消えのこるべき 身ならねど ゆき隠れぬる 君ぞ悲しき

伊周は、和歌や漢詩の朗詠の名手であり、定子の葬送において詠んだ和歌が続古今和歌集に残っているとのこと。

悲劇はまだ続きます。

伊周の甥である敦康親王は第一親王でもあり、彰子と道長が育てていたけれども、彰子に第二親王である敦成親王が生まれることで、状況は一変します。

それというのは、第二親王の敦成親王が立太子し、第一親王の敦康親王が皇太子になれませんした。その背景として、伊周・定子兄弟の母型の高階一族から呪詛がでたり、伊周らによる道長襲撃の噂が出たり、事実かは別として伊周は、ますます窮地に追い込まれどんどん失脚していきました。

一条天皇は敦康親王に攘夷すべきかを諮ったところ、道長が謀反を起こす可能性を説かれ、第二親王であった敦成親王が後一条天皇となったわけです。実の母となった彰子は、敦康親王も育てていたこともあって、父・道長を怨んだとされていますが、本当かは分かりません。敦成親王は自分の子ですから。

敦康親王は20歳にしてにわかに発病して薨去しています。

にわかに薨去した人として、定子の妹の原子がいます。父・関白道隆死後に、兄・伊周が失脚し、姉・定子も薨去。さしたる後見もないままに東宮居貞親王(後の三条天皇)に入侍し寵愛を受けるも、突然血を吐いて頓死しています。

一条天皇の最初の皇后である定子には清少納言が、のちの皇后となる彰子には紫式部が女房として後世に伝わる文学を残しています。

頓活

伊周が一条天皇と定子に紙をくれた。その紙を使って何を書こうかと定子が清少納言に訪ねたら「枕にしましょう」と答えることから「枕草子」が作られることとなるわけです。

また、清少納言の娘であるとされる上東門院小馬命婦は、彰子の女房だそうです。

何がどうなっているのかは全くわかりませんが、当時の貴族や皇族は、和歌をたしなみ漢詩に精通していたことは、平安時代の文学を築く底力になっていました。

これは明治期の政治家や文豪にも共通していることと思います。ショウペンハウエルの「読書について」を訳した渡部昇一さんは、漢文と英語を多少学んでから夏目漱石がやっと分かった気がすると言っていました。

当時の勉強法は、一体どのようなものだったのかは不明ですが、学んだ上で自分独自の世界を作り上げているのですから、今の学習法よりは勝っていたと言えそうです。

埋もれていた「古事記」を世に出した本居宣長は、「古事記」を読むために30年かけて万葉集を何回も読み込むことで、万葉の時代を感得したのだそうです。

「世界を作る」という発想が、現代の日本人には、少し希薄になっているのかもしれません。



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