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死刑と裁判員裁判

さぼ郎
昨日の毎日新聞のニュースです。
神戸市長田区で2014年、小学1年の女児(当時6歳)を殺害したとして、殺人や、わいせつ目的誘拐などの罪に問われた無職、君野康弘被告(52)の上告審で、最高裁第1小法廷(山口厚裁判長)は1日付で検察側の上告を棄却する決定を出した。死刑とした裁判員裁判の1審・神戸地裁判決を破棄し、無期懲役を言い渡した2審・大阪高裁判決が確定する。
この判決に対して被害者の母親がコメントを出しています。
「亡くなったのが一人であれば死刑にならないという前例はおかしい」「前例だけで判断して命の尊さを直視しないのであれば、何のために裁判員裁判をしたのか」
裁判員裁判による神戸地裁の死刑判決について「判断は正当だったと今でも確信している」
大阪高裁や最高裁の判断を「計画性がない、前科がないというだけでは死刑にしない理由にならない」
とのことです。心情的によく理解できることでもあり、裁判員が「死刑」を休憩したことも理解できるのは、被害者遺族、裁判員を含めワタシも法律の専門家ではないからだと思います。

そもそも「死刑」の是非を問うような高邁な意見があるわけではありません。日本には制度として「死刑」があり、2018(平成30)年7月6日と26日の2日に分けて、合わせて13人のオウム真理教事件の死刑確定者の刑が執行されたことも記憶にあたらしいことであります。

純粋な司法の判断で行われたのか、巷では改元前の滑り込みという政治判断というような噂も流れていました。そもそも法務大臣は行政官であるわけですから司法の独立は限定的だし、日銀だって「アベクロ」なんて言ってる以上、

憲法では36条で「公務員による拷問、残虐刑の禁止」を決めていますが、死刑は31条で「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」ともされており、昭和24年に最高裁で合憲となっているようです。

要するに残虐刑とは「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法」を意味するようです。

ということで、残虐ではない「死刑」を求刑する根拠は、個別の事例をつぶさに検討するべきなのか、はたまた前例主義でバランスをとるべきなのかは、極めて高度な法律知識が不可欠になります。

逆を言えば、裁判員には、前例主義とする「前例」に対する知識があるわけでもなく、社会の安寧と刑罰という観点からの「刑事政策」に精通しているわけでもありませんから、当然の帰結として「厳罰」傾向が強まることは想像に難くありません。

「死刑」の意味するものはなにかと問えば、遺族とってみれば「意趣返し」、つまり国家権力による「敵討ち」「応報」であり、被害者及び被害者遺族の権利の主張という側面が有るでしょう。

また、「凶悪事件に対して威嚇力行使による犯罪抑止」という側面の主張も有るようですが、それはあくまでも理論でしかなく、どちらかといえば社会規範維持のための法哲学としての論理であるという指摘もあります。

死刑という制度があることで、どれだけ凶悪な犯罪に対する抑止力になっているかは不明ということです。

母たるもの、子の命を奪われれば、いかなる理由や背景があろうが一切の情状酌量を認めるはずもありません。

この次元において、法の専門家と犯罪被害者及び遺族の思いに乖離があることは至極当然のことと思います。

明治になって明確に復讐を禁じています。その代わりに公権力が代行するわけで、その根底にある考えは「社会」の掟を破ったことに対して「公権力」が成敗するのが「刑法」なのだろうと思っています。つまり、検察(検事であって遺族ではない)が被害者、遺族に成り代わって刑罰を求めるという仕組みになります。

では、被害にあった当事者が個別にできることはなにかというと「民事」で争う以外に無いわけです。つまりは損害賠償として請求するわけです。

そこに「裁判員」という、どちらかといえば被害者、遺族のサイドに意識や考え方が近い人々が裁判官として判決を担うこととなれば、当然の帰結として「厳罰傾向」が進むことは明らかなわけです。

ここで、2つの考え方が出てきます。

一つは、裁判員が出した判決を「民意」として斟酌もしながら上級審で再度、法理に照らして審理するべきである とする考え方です。

もう一つは、制度として選ばれた市井の裁判員が出した判決を重視しなければ制度自体が破綻しているとする考え方になります。

ちなみに、昭和23年の最高裁の示した考え方では、
犯罪者に対する威嚇効果と無力化効果(隔離効果)による予防説に基づいて合憲」としており、応報刑的要素についての合憲性は排除されている。
とされ、「威嚇」「無力化」であって「応報」ではないとしています。

考えても答えの出ないことであるわけですが、このことは「当事者」であるか「第三者」であるかによっても答えは変わります。そして、社会は「当事者」だけで構成されているわけではなく、圧倒的な「第三者」と時と場合による「当事者」で構成されているわけで、「第三者」の求めるところは「社会の安寧」としか言いようがありません。

つまり、プロの裁判官と裁判員の考え方に違いがあるのは当然だとして、どういうバランスが、その時代を担っていくのかになるのだと思わざるを得ません。



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