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あれこれ

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孤独について

さぼ郎
「孤独」の反対語って、何が有るのでしょう。よく、新聞などでひとり静かに亡くなっていることを「孤独死」などといいます。

では、家族や友人や医療関係者に看取られれば「孤独死」ではないのかと思うところもあります。

俗に、「一人で生まれて、一人で死ぬ」などとも言いますが「一人で生まれてきた」ことを自覚している人が、そうそういルトも思えません。

集団自決やカルトでもない限り「大勢で死ぬ」ことも少ないでしょうし、大勢で死ねば楽しいわけでもないでしょう。

テレビドラマや映画などでは、死にかけている人がしゃべるだけしゃべると、ガクッと、あるいは静かに死んでいくシーンが多いですが、医療関係者の話などでは大方は、数日間、意識が混濁してから死ぬようなことのほうが多いようです。

ということは、家族や友人に看取られようが、本人の意識には、そのようなことは無関係になっていて、そばで話していることが聞こえるとか、聞こえないとかもいいますが、どのみち意識が戻ることは稀なわけですから、本人が本人であることを自覚できなくなった時点で、ほぼほぼ死んでいるようなものと思えます。

対義語で言うと「賢愚」「貧富」「美醜」「貴賤」等々いろいろありますが、そのどちらにも「孤独」という言葉をつけることができます。

それはなぜかというと、結局、いかなる自己であっても、自己は自己として完結しているからであって他をおもんばかることはあっても、他に成り代わることはできないからだと思います。

では、「自己」とはなにか?

自分と他者との関係で考えてみると、少し簡単になります。
(1)自分が知っていて、他者も知っている「オレ」
(2)自分が知っていて、他者は知らない「オレ」
(3)自分が知らなくて、他者が知っている「オレ」
(4)自分が知らなくて、他者も知らない「オレ」
の4種類で、すべての「オレ」を語ることができそうです。

「孤独」じゃないということは、おそらくは(1)の他者の理解者が多いことを挙げることができるように思います。

逆に「孤独」は、(2)のようなケースで他者の理解者が少なければ孤独感は増してくることと思います。

(3)と(4)の「自分が知らない」場面では、自分が知らないのだから認知のしようがないから、孤独とな関係なさそうです。

自分が認知していないだけでのことで「無意識」とか、あるいは「感情」などは、結果として自己に認知されるわけですが、自分が主体的にコントロールすることは難しそうです。

他者が知っている自分と、他者が知らない自分に乖離があることなど少ないことでもなく、有る種、自分自身を演じていることだって、普通にあることじゃないでしょうか。

結局、冒頭の「孤独」に戻ると、「他者が共感してくれる自分」「他者と共有している価値観や思い出」が多ければ、少しは「孤独」ではないかもしれませんが、そのためには自分を削り出すことも必要となります。

ということで、一番いいのは、「孤独」を感じたら「共感」「共有」できる仲間とつるみ、「孤独」を感じない限り、自分が知っていて他者が知らない「オレ」の世界にいるというような二股をバランスさせることが気楽な生き方のような気がします。

「孤独」の対義語で言うなら「共感」あたりが、近い感じがします。

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