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あれこれ

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わが半生の反省の記《4》

さぼ郎
今朝は、市ヶ谷のグリーンパレスというところで「朝飯会」というのに誘われて行ってきました。

7時から食事が食べられて7時半から8時半まで講演。30分が質問という感じで9時に終わります。

宮古あずさという現役看護師による「生病老死」というテーマのお話でした。主催側で頑張っている人から、当初、集まりが良くないので来て! と言われての参加でしたが、途中から沢山の参加者が申し込んできたようで、会場はほぼ満員の状態でした(70~80人)。

期待刷るだけの予備知識もなく、単に参加協力と思って行ったのでしたが、行って良かったと思いました。彼女が言っている話は、実は、平安鎌倉時代だったら、ほぼほぼ宗教ネタになるような内容だったと思います。

生まれて、病を得て、老いて死んでゆくわけで、何が幸福で何が不幸か? なにが孤独で、なにが孤独じゃないか?

このあたりの話を、彼女の経験から、そして経験によってどのように見方、考え方を変えてきたかという経験談だったので「壇上の賢人」としての上から目線の「教え諭す」話ではなく、非常に好感度が高かったです。

ちなみに、「孤独」には反対語が無いそうです。でも、孤独じゃないということは一人ぼっちじゃないということになりますが、では、一人ぼっちじゃないってことは「友達」や「家族」に囲まれているということなのでしょうか?

仲の良いフリはできるけれど、本当に仲良しかというと、戦場で1本のタバコを分けるような出来事にでも遭遇しないと、人間関係の距離は縮まりません。

とどのつまり、人間関係における関係の濃密性は、一つには「物相(モッソウ)の数」、すなわち共に過ごした時間の量。もう一つには、関係を深める出来事 あたりが不可欠な要素と思います。

死に臨んで多くの人に看取られることが、幸福であり孤独なことじゃない といわれれば、そうとも思えません。

少なくとも客観的事実ではないということで、主観的には事実なんて存在しないわけです。そこに不条理があって、だから宗教やら哲学やらが入り込む余地ができるわけです。

ということで、中学生活です。ワタシは、中学生になったら吹奏楽に入ってトランペットが吹きたかったので、即座に吹奏楽部に入りました。

3年生に石塚さんという天才的トランペット吹きがいました。2年生は広瀬さんと井出さんでした。彼らも優しくて良き先輩でした。石塚さんは、当時の映画で「西部開拓史」という1962年の映画の序曲を映画館に通いつめて楽譜に落として、我々に練習させてくれました。

映画館で、その映画の序曲を何回も何回も聴いて楽譜に起こすというくらいの天才肌だったわけです。

ところが、親友(になった)の日野は、2年生になるとサッカー部のキャプテンになったのはいいのですが、部員が10人になっってしまったので、このワタシにサッカー部に入ってくれというのです。

仕方なく吹奏楽部をやめてサッカー部に入りました。ボールが来ると敵がわっと集まってくるのが嫌で、球が来ると、ともかく蹴り飛ばしました。センターフォワードは日野原といって、これまた、いかにもセンターフォワードのような人材で、球を回せ、球を回せとうるさいので、日野原のいない方に蹴り飛ばしていて、作戦も何もあったものではなかったです。

今のテレビなどでやっているのがサッカーなら、ワタシがやっていたのは単なる球蹴りでしたね。

それと「しごき」。当時の運動部では「しごき」は当たり前のことでした。そんなこんなで、いまでも「サッカー」というとトラウマで、あまり好意的な感情はありません。

日野といえば、日野のうちの隣のおじさんは、いつも乗っているオートバイにキーをつけたままだからというので「泊まりに来い」と呼ばれて、家族が寝静まった頃を見計らって隣のおじさんのオードバイを持ち出して、無免許は当然ですが、初めてオートバイに乗りました。

日野ついでにいうと、親父らが飲む「酒」がうまそうだからというので、リキュールを買って、便所掃除のときに二人で飲んだら、授業が始まってからふたりとも酔っ払ってしまって家に帰され、親は呼び出しになりました。

その授業は国語で布施先生でした。呼び出された時、日野のおふくろは和服できました。当時、父兄参観日とかのオフィシャルな場面で、母親は結構、和服の人も多かったです。

当時の習志野2中は円形校舎で、ようは真ん中が空洞で、その回りにぐるぐると教室が配置されていて、廊下が坂になっている構造でした。

英語の香取先生が宿直のとき、何人かで夜に遊びに行き、学校に置いてあったオートバイで、日野と円形校舎を上に行ったり下に行ったりして遊びましたが、よく先生がしかりに来なかったものです。

給食を上の階に上げる荷物用のエレベーターがあって、これはワタシは関与していませんが、日野がそのエレベーターに乗ってワイヤが切れて落ちたことがありました。これも、学校的には結構な事件でした。

ま、そんな時代だったということです。

そういえば、こんな事がありました。「決闘」です。当時、北村というのが番長でした。中肉中背だし、見た目も野蛮人とは程遠い優男でした。その北村に挑戦したのがバレーボール部の立花という、体もでかい精悍なやつです。

これは、円形校舎ではなく、木造の普通の校舎の1階と2階の中間の踊り場が決闘の場所でした。皆んなで見に行ったら、一瞬で決着が付きました。北村の勝ちで、北村は用意された椅子に座ると漫画を読んでいました。

こんな出来事も未だに忘れることができません。

これは後で知ったのですが、小学校が同級だった宮崎精一というのがいました。彼の両親は教員で、彼もおとなしい子でしたが、どういうわけか、この宮崎精一が番長グループにいじめられていたのだそうです。

あるとき、窮鼠猫を噛む事が起きました。宮崎精一が、番長の北村の腕をねじ上げて骨折させたんです。一瞬で立花をやっつけた番長の北村の腕を折ったのですから、本当に窮鼠は猫を噛むし、火事場ではバカチカラが出るものです。

次回は堀口満に関することを書きます。たった一人の読者に向けて、著者は盛り上がっています。

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