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あれこれ

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わが半生の反省の記《1》

さぼ郎
与謝野晶子に「私の生ひ立ち」という本があります。夏目漱石に「硝子戸の内」という本もあります。

作家の書く小説でも、人生について考えさせるものをワタシは純文学と呼ぶことにしました。

樋口一葉の「たけくらべ」、二葉亭四迷の「浮雲」。

なんとか読めるのは明治くらいまででしかありませんが、時間と力と援助があれば平安時代くらいまで遡れればいいなと思っています。

いまさらなにをしても手遅れなのは十分承知しているのですが、死ぬまでは生きなければならないという定めに従わざるを得ませんので。

荘子は、大したものです。何を勉強したからと言って、その知識は完成するのですか? と問いかけます。その際限のないことにおいては、知識欲など金銭欲と変わらないと指摘しています。

子供のうちに死んでしまうのは人生の達人だともいいます。だって、いずれ死ぬんだから早く死ぬってすごいことじゃないかと言うわけです。

小学二年で「地獄」を知って父親に殺された子がいました。彼女は死ぬことで地獄から解放されたわけです。長く生きればそれだけ地獄が続いたとも言えます。父親も母親も、彼女を地獄に突き落としたわけですが、児童相談所も同罪です。

そんな話を書くのではなく、我が半生を反省してみようかと思った次第です。特に理由もなく、なにも与謝野晶子や夏目漱石を挙げるまでもない話ですが、今に至る自分は、いったいなんだったんだろう という思いの原点に、過去を快気してみることもよかろうという思いです。

ワタシは昭和二六年5月9日に北海道は紋別郡生田原村で生まれました。出生地ではあるけれど、先祖代々が住んでいたというわけでもないので「故郷」ではありません。

昭和二六年といえばサンフランシスコ条約にて日本が再度、独立できた年になります。wikiで生田原を調べると、昭和10年に銅が取れたとあります。昭和29年に町になったそうですが昭和26年当時は「村」です。

いまも、紋別郡は変わらないようですが「遠軽町」になってしまったようです(2005年)。死ぬまでに一度は行ってみて役所で出生を確認してみたいと思っています。

なぜ、こんな村で生まれたかと言うと、父親の仕事に関係があります。父親は大正生まれで北海道帝国大学の鉱山学部を卒業し満州に渡りますが、戦争がたけなわとなり徴兵され、大学を卒業していたので将校で任官したのだそうです。終戦時には、陸軍中尉だったそうです。

配属先が、現在、千葉工大がある当時の「鉄道連隊」だったとのことでした。

訓練を終えると、まだ、制海権、制空権がある内に大陸に渡りシンガポール陥落のときにシンガポールにいたようです。シンガポールには思い出あるとかで、1回、オヤジと2人で行ったことがありました。

どういう順番で、どのようなことをして、どこへ行ったのかなどは、詳しく聞きませんでしたが、泰緬鉄道の関係で「モールメン(モーラミャイン)」にいたようです。

父親との話で出てきたキーワードに「モールメン」と「インパール作戦」がありました。モールメンを調べてみると、タイにあって、当時のビルマ(現在のミャンマー)ラングーン(現在のヤンゴン)のほぼ真東に立地しています。

牟田口廉也が、なぜ、現実離れをしたインパール攻略を考え出し、軍隊という組織の中で方面軍、南方軍の反対にも合わずに作戦が実行されたのかは、興味があれば他の本を読んでもらうしかありませんが、要点をまとめると、

日本軍が占領したビルマを米英中印から反攻されだしていた
イギリスは反攻のための資材をインパールに結集していた
牟田口は、そのインパールを奪取することで英軍に打撃を与え
インパールに集まっている物資を略奪しようと考えた
速度を上げるために重兵器を運搬せず牛馬でジャングルや山脈を越えようとした
インパールを陥落させて物資を略奪する作戦であったため兵の弾薬食糧は3週間分しかなかった
作戦の無謀さを指摘して反対意見を出した参謀や師団長は更迭し、忖度マンと牟田口の言い分を承認する上司だけで作戦を決行した

というようなことで、一説には10万の将兵のうち5万が戦死で残りの5万もほとんどが病人だったという結末で、インパールにたどり着いた兵は一人もいなかったわけです。余談ですが牟田口廉也は戦後の昭和41年に天寿を全うしています。

無謀なインパール作戦を実行したことでビルマ撤退が早まることとなり、ラングーンからモールメンに撤退してきています。父親がモールメンにいたのは泰緬鉄道の関係だと思うのですが、詳しい話を聞き逃しました。

陸軍でも海軍でも、上官の命令は天皇の命令でもあり(天皇にとっては迷惑な話でしょうが、歴史の中で「天皇の命令」は、逆らうことのできない絶対的権威を与えることとなりました)、それがいかに曖昧な作戦であろうが「権威」に対して逆らうことは失脚または抗命を意味し、「忖度」が権威に権力を与える構造は、今の日本社会においても十分に生きています。

まさにアベノミクスと称する安倍ー黒田の日銀政策の顛末は、一体誰が責任を負うのでしょうか。まさにインパール作戦級の大失敗のような気がします。

大方の日本国民が塗炭の苦しみに突き落とされる頃に、彼らは天寿を全うしているか、はたまた存命で潤沢な年金で楽園のような生活をしているであろうことは、牟田口廉也と構図が似ているような気がします。そして、作戦が失敗した原因を他に転嫁して自分を納得させているであろうことも想像に難くありません。

ということで父親は捕虜になり、敗戦から1年遅れて帰国し、母親の実家があった札幌から戦後の生活を始め、当時、紋別郡生田原村近郊で銅(オヤジは金と言っていた)が採れたため採鉱技師でもあったことから、移り住んだことから、ワタシの人生が始まることになります。

話がインパールに飛んでしまったので「わが半生」は、次回に回します。



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