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天才と知能

さぼ郎
Amadeusという映画があって、サリエリという人がモーツァルトの才能を妬むような仕上がりになっています。

何処までが事実なのかは全くわからないことですが、終りの部分で、サリエリが精神病院のような場所で、牧師との会話には、真実が表現されていると思います。

サリエリは音楽のために神に一生を捧げてきたのに神はモーツァルトに惜しげもなく天与の才を与えた。つまり、この世に神などはいないのだと牧師に心情を吐露するわけで。

それに対して牧師は反論することもできない。

なかでもしびれるシーンは、モーツァルトの妻が、モーツァルトの書いたスコアを持ってきて、それをサリエリがめくると、各ページごとのメロディがサリエリの頭の中に浮かんできて、嫉妬を超えて驚愕と、自分の才能との落差に愕然とするシーンが印象深いです。

いま、「天才の脳科学」という本を図書館から借りてきて読んでいます。台東区になくて北区から回してもらっています。

アメリカにウィリアム・ターマンという人がいて、彼は1877年にインディアナ州で生まれています。

当時、フランスでアルフレッド・ピネという人が知能指数を図る方法を開発し、ターマンはそれを英語した。さらにピネの考えを進めて創造性や、天才、知能などを調べる方法を開発しようとした。

ときは、第一次世界大戦にアメリカが参戦したことから、軍がターマンの研究に興味を持つ。当時のアメリカ人で、文字が読めない人が少なからずいたため、兵隊が任務に対してどの程度役に立つかを調べる方法を探していた。

結果としたたいへん役に立ったのだそうです。戦争が1918年に終結し、ターマンはめでたくスタンフォードに戻った。

1921年には、1910年ころに生まれたIQが135から200の子どもたち、「ターマンの天才たち:ターマイト」を、その後70年間追跡して調べることになった。

彼の研究で、知性と創造性の関係を調べたことが興味深い点であった。

後に有名になったオッペンハイマーのような人がいたけれど、成長することで創造的になった人を輩出したわけではなかった。中年期のターマイトから有名な数学者、芸術家、作家、音楽家はほとんどいなかった。

実質的な成功においてもほどほどであった。IQは高いけれどノーベル賞の受賞者もいない。調査対象者757人のうち、目立って創造的な人は数人にとどまり、結論から言えば天才と知能は同義ではないことを科学的に証明した。

知能は創造性に何らかの関係はあるものの、本質的には密接な関連を持つものではなく、天才に不可欠なものは「創造性」という役割が担っていることが見えてきた。

と、このような触りから、この本では脳科学に入っていくという筋立てになっています。著者は、IQが高くハーバードで医学を修め、オックスフォードで哲学を修めた人だそうです。

エミリー・ディキンソンは素晴らしい詩を何百も書いたのに死後まで出版されなかった。ゴッホも同様。

では、創造性とは何か? 誰が決めるのか?

そこで登場するのが、我らが石川啄木です。明治19年に生まれ、明治45年に死んでいます。

これは「坊っちゃんの時代第三巻 かの碧天に」で登場する主人公が石川啄木です。

彼が朝日新聞で校正係をしていたときの給料が25円。著者の計算によると、当時の1円は今の5千円だそうで、12万5千円くらいに相当するようです。同じ時期に連載小説を書くために朝日新聞の所属していた夏目漱石の給料は200円。つまり100万円。ずいぶんな違いです。

夏目漱石は、その時分から創造性において才能が認められていたわけですが、石川啄木の歌の才能は、一部を除いて誰も認めていなかった、あるいは経済効果として捉えてはくれていなかったわけです。

生涯に千円(600万円くらい?−−−wikiでは1400万円と書かれている)を超える借金をして、生涯で一番多くの一時金を得たのが彼自身の香典だったそうです。悲しい話ですね。

いかなる時にでも、あふれる水のごとくに歌想が湧いてくる歌人であり、いかなる時にでも、お金を借りることと浪費することに明け暮れたヒトでもありました。

己が名を ほのかに呼びて涙せし 十四の春にかへる術なし
こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ
先んじて 恋のあまさとかなしさを 知りし我なり先んじて老ゆ
頬につたふ なみだのごはず一握の 砂を示しし人を忘れず

創造が天才の切り札なら、モーツァルトと啄木は、間違いようのない天才です。借金と浪費と女好きなら野口英世も列に加えなければなりません。

「坊っちゃんの時代 第二巻」で、二葉亭四迷が登場していたので「浮雲」を図書館から借りてきて読みました。夏目漱石や二葉亭四迷は幕末の生まれで、明治生まれの啄木とは世界観が違うとあとがきに書かれています。

しかし、共通していることは、彼らの言葉の「創造」が今の日本の言葉の文化に脈々と息づいていることだと思います。そして、これらが日本の情緒を形成しているわけです。

日本の宝は、富士山でもなく、桜でもなく、この「日本の情緒」であると、最近、つらつらと思うようになりました。そして表層的なる「民主主義」や「資本主義」により、「日本の情緒」が軽佻になり浮薄になることを予想せざるを得ないことを悲しんでもいます。



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