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伝記「長谷川泰」《最終回》

さぼ郎
知己が本を送ってくれました。「がんに効く生活」という本で、フランス人が書いています。たまたま免疫の本を読み、「がんはなぜできるか」という本(どちらもブルーバックス)を読んでいたところです。

基本的には、アメリカ人の書いた翻訳本は、あまり読まないのですが、知己が送ってくれた本はフランス人で、冒頭を読む限り、アメリカ人の嘘臭い本と違ってとても真面目だし、とても真摯な書き方に直感として「これはいい本だ」と感じています。

ブルーバックスとも比較できるので、とても楽しみです。

次なる話題。

今朝、読んだ本の部分ですが、切支丹屋敷に埋葬されていた人骨からDNAを鑑定した所、トスカーナ地方の出身であることがわかり、頭骨からシドッチの顔を復元したそうです。



そのシドッチが持ってきたとされている「親指のマリア」という絵が国立博物館に重要文化財として保管されているのだそうです。

同じく、シドッチが持ってきたという世界地図も重要文化財として国立博物館にあるのだそうですが、シドッチを取り調べた新井白石の書いた「西洋紀聞」には、シドッチと、その地図を見ながら世界の情勢などを語り合ったようです。

結局は、小日向の切支丹屋敷に監禁され、シドッチが改宗させたと言われる長助の死後数日でシドッチも亡くなっているので、ひどいことをされた挙げ句のことと思います。

ということで「長谷川泰」の最終回です。

明治32年になると全国に医師が約4万人になる。そのうち半分強が漢方医。帝国大学(といっても東京大学医学部)出身者が約千五百人。

平成26年12月31日現在における全国の届出「医師数」は311,205人で、「男」247,701人(約8割)、「女」63,504人(約2割)
人口が約4,430万人。

医術開業試験の合格者も九千人になっていた。
1875年(明治8年)より1916年(大正5年)まで行われていた、医師の開業試験である。1885年(明治17年)以降、「医術開業試験」の名称となる。
近代医学の進歩に対応できていないとの批判が帝国大学卒業者を中心に強まり、明治39年に廃止が決定された。

明治26年。長谷川泰らで「大日本医会」を作ろうということになって、長谷川泰は後藤新平らと共に理事に就任しています。理事長は高木兼寛で、東京慈恵会医科大学を創設しています。

明治30年に、後藤新平が児玉源太郎の要請で台湾の民政局長になると、後藤新平の後釜として長谷川泰が内務省衛生局長として就任する。

後藤新平の引継書で、「医師会法案」というのがあって、「医師会に入らなければ患者の診察は出来ない」という条文があったが、帝国議会では波乱もなく貴族院に回されることとなった。

ところが、貴族院では東京帝国大学医科の教授たちが「医師会法案」に対して激しい反対運動を起こした。

要するに、玉石混交の医師に法的地位を与えることは危険であるということであったが、先進の知識を身につけた医師たちのプライド(エリート意識)であった。

そこで檄文を森鴎外に依頼し、結果、明治32年に貴族院における審議の結果、賛成38人、反対159名で、医師会法案は廃案となった。

明治31 、32年には、医薬分業という意見が出てくる。これに対して長谷川泰は、反対せざるを得なかった。その理由は、当時の薬剤師が2500人程度であり、医師3万人に対して医薬分業の実施は物理的に不可能と判断せざるを得なかったからである。

明治35年、第16回帝国議会でも薬律改正法が審議未了となると、薬律を巡って長谷川泰と薬学者との対立が無視できなくなり、長谷川泰を嫌悪していた山県有朋や内海内大臣の意向もあって、衛生局長を辞任することとなった。
長谷川泰は時の総務長官山県有朋に責任を取らされ衛生局長職の辞表を提出させられ
山県は、北越戊辰戦争時新政府が組織する征東軍の北陸道鎮撫総督府(会津征討越後口総督府軍)参謀で、会津への途中長岡藩に2ヵ月半に及ぶ想わぬ抵抗に遭う。特に山県は松下村塾での親友時山直八をこの戦いで失っており、泰に嫌悪感を久しく持っていた。
とwikiに書かれています。

その間に、東大赤門派閥である「明治医会」は秘密裏に専門学校制度の審議を重ねており、明治36年、突如として「専門学校令」が発布される。
東京帝国大学医科大学の教授入沢達吉、青山胤通、森鴎外等は、エリート意識より生じた医師差別論から「明治医会」を組織して「日本の医学を良くするためには医術開業試験を廃し、粗末な私立医学校を廃校にして官立の医学校を充実させるべきである」と決議
し、1年以内に文部大臣の求める基準を満たさなければ全て廃校」という条項もあり、これは長谷川泰の済生学舎を狙い撃ちにした条項であった。
維新の元勲と云われる人の中で、凡そ山県有朋ほど、幕末の政局を根に持って執着して忘れ得なかった人はいないと云われ、その私怨から逃れられず長谷川泰は済生学舎廃校宣言を行う
ということになります。

一つには時代が追いついてきた事が挙げられます。長谷川泰が佐倉の順天堂で西洋医学を学んだのは幕末であり、明治早々に於いて西洋医学のために済生学舎を設立し廃校までの入学者は2万人を超え、医業開業試験の合格者も9千人を超えたわけで、その間にはドイツなどで医学を学んできた東大赤門派も派閥を形成するほどに充実してきていたわけです。

さらに高木兼寛の東京慈恵医院医学校は認可される見込みであったことも長谷川泰にとっての打撃になった事が考えられる。他の大学に関しては認可されていくのに対してひたすら医学に関してだけ、異様なくらいに厳しく、しかも、済生学舎が狙い撃ちされているようであったことは想像に難くない。

明治36年8月30日に、東京日日新聞に廃校宣言を掲載する。在学生のその後の進路については何らのコメントもなかった。

そこで、済生学舎の講師たち、順天堂の佐藤進、伝染病研究所の北里柴三郎などの援助を得て、在校生のために「同窓医学講習会」を設立し、神田三崎町で開学するが狭隘に過ぎ、千駄木の東京女学校(wikiによると明治22年に女子校等車販学校となっていて。千駄木になぜ校舎があったのかは不明)の校舎を探して権利関係を解決付けて開校にこぎつけたのが、明治36年12月20日。

明治37年に、突如として日露戦争が起こると、軍医不足が問題となる。そこで文部省は専門学校令によらなくても廃止しなくてもいいとしたため、石川清忠は「東京医学専門学校」を創立することとなった。

この石川清忠は、長谷川泰が専門学校を作るため済生学舎から女子学生に「退学」を命じた折に女子医学研修所を開設して女子学生を救済した。その「女子医学研修所」も千駄木に合併吸収している。

ここから先は「長谷川泰」の話ではなく桂秀馬、山根正次、石川清忠に受け継がれ、「私立日本医学校」と「私立東京医学校」が合併し、女子医学研修所も合併して、日本医学専門学校」となり、大正15年に日本医科大学に昇格しています。

長谷川泰が突如として済生学舎を廃校したのが明治36年ですが、明治37年に日露戦争が始まると医師不足が想定され、本来なら帝国大学を筆頭に専門学校としての基準がなければ全て廃校のハズでしたが、状況が急転します。

というか、赤門派は、おそらく長谷川泰を排除できればよかったのだろうと思います。
衆議院議員としては、1891(明治24)年から1892年にかけて「関西にも大学を造るべし。帝国大学一校のみでは競風が失われる。」と予算委員会で提言し、政府は3年後その準備に着手し、1897(明治30)年に京都帝国大学が設立される。
2年後(明治32年)の医学部開設に当って猪子止戈之助病院長は予算不足を長谷川泰に訴え、長谷川泰は文部省に掛け合い、聖護院近くの2万坪を買収させ、医学部および付属病院を造らせている。
wikiによれば、京都大学も京都大学医学部も長谷川泰がいればこそ出来たと書かれていますが、「済生学舎と長谷川泰」には、そのような記述がありません。ちなみにwikiで京都大学を調べると、「長谷川」という名前ではヒットしません。

日本医科大学では、
1876年(明治9年)に長谷川泰により創設された済生学舎を前身とする開学130年を超える日本最古の私立医科大学である。
とのことのようですが、長谷川泰の引け際は決して心地よいものでもなく、時代の中で淘汰だったのかもしれませんが、まさに、明治という時代を「医科」の変遷で追ってみると、このようなものであったということになります。

とりあえずはおしまい。

追記
女子学生を「排除」している「東京医科大学」は、大正5年に日本医科専門学校から450名が同盟退学して作ったとのことです。

wikiにも、東京医科大学のホームページにも「理想を追って」にようなことし書かれていません。

長谷川泰の突如の廃校宣言にしても、不明なことは少なくありません。が、素人が調べたところで、真実や真理は推察の範疇を超えることはありません。

いろいろあったのでしょうね、それぞれに。そして、今の日本の医療があるわけです。

ノーベル賞の本庶先生も小野薬品とはお金でもめているようですし、まぁ、いろいろ大変なのでしょうね。

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