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伝記「長谷川泰」《5》

さぼ郎
済生学舎」をwikiで調べると、まず、その前段から始めなければならない。

おさらいをすると、戊辰戦争で河井継之助の最後を看取り、維新になって相良知安の弟の相良元貞の推薦で大学東校(東大学部の前身)の教師になり、明治5年には校長になるが、入獄中の相良知安が出獄したので校長の座を譲ると、長崎医学校の校長に転任することとなる。

後、長崎医学校が廃校になると学制を東京医学校(後の東京大学の医学部)に転学させ、明治8年に済生学舎開業許可をもらい明治9年に佐藤順天堂医院の直ぐそばに開業する。

明治15年になると手狭になり、現在の東京医科歯科大学裏手に敷地1,075坪の土地を購入し、自宅件学校件病院にする。

明治17年には「東京医学専門学校・済生学舎」として届けを出している。明治20年に文部大臣森有礼は「特別認可学校」として府県立学校と同等の扱いを認めている。

ところが、明治21年に森鴎外が済生学舎の教育を批判する。森鴎外の考えは、エリートコースを進んできた人達に少なからずあった「官尊民卑」であったが、死亡者を面接だけで入学させるというスタイルは、さすがに時代に合わなくなってきていた。

済生学舎の卒業生で有名な人といえば野口英世を上げることができる。野口英世は明治29年に内務省医術開業前期試験を合格して、11月に済生学舎に入学している。実施研究は順天堂医院(佐藤進の協力)で行っていた。

野口英世は子供の頃に受けた火傷により左手が不自由であったが、16歳のときに会津若松で渡部鼎によって手術を受けている。明治18年に、渡部鼎は「脚気」は細菌であるとし、高木兼寛は栄養だとして大論争を行っている。

明治18年に渡部鼎はカルフォルニア大学医学部に留学し、卒業後サンフランシスコで開業している。wikiによれば、海外で医師として開業した最初のヒトだとか。

野口英世は、この渡部鼎から英語と基礎医学を学んでいる。後に医術開業試験に受かることを目指すことになるが、その前提としての延期試験の場合は1年以上、後期試験は1年は以上の修学が必須とされ、野口英世の場合は渡部鼎のところでの修行が該当した。
明治後半以降、帝国大学や医学専門学校の医学教育機関からの卒業生が安定的に輩出されるようになると、学歴を問わず試験合格のみで免許が与えられる医術開業試験は、近代医学の進歩に対応できていないとの批判が帝国大学卒業者を中心に強まり、1906年(明治39年)の医師法制定に伴い、廃止が決定された。
野口英世を「世界の野口」にしたヒトは、実は血脇守之助という人であった。この人は、歯科医師であり、たまたま会津若松に来ていたときに血脇渡部鼎を尋ねたときに原書を読んでいる青年が野口清作であった。その野口青年に上京したら寄るようにと声をかけたことが、二人の出会いになり絆になっていく。

長谷川泰から離れてしまうので、詳しくは、「血脇守之助と野口英世」を読んで下さい。本当に面白くまとめられているだけでなく、血脇と野口の縁の不思議さは、どうしてなんだろうと思わざるを得ないが、明治の人の気質が、そこにあるような気もする。

例えば、堀田正睦が招聘した佐藤泰然は実の息子の松本良順を御典医にしておきながら、順天堂は佐藤尚中を養子に迎えているし、その佐藤尚中佐藤進を養子にしている。関寛斎も、あまりに優秀とのことで儒学者関俊輔の養子となり、順天堂に入門し泰然のもとで学んでいる。

血脇の援助で済生学舎に入った野口は、指の手術も受けて後期試験も無事通過して医師免状を手にすることが出来た。

野口血脇と親しかった済生学舎出身の菅野徹を通じて順天堂医院に勤務することとなる。順天堂では翻訳や症例を論文にしたりしていたが、北里柴三郎志賀潔が「赤痢菌」について論文を発表するや、臨床医から細菌学志望に志を変えることとなる。

明治25年に北里柴三郎が帰国すると、福澤諭吉等の援助を得て私立伝染病研究所を設立し、野口英世は血脇や順天堂の人脈を通じて伝染病研究所の助手として入所する。

明治32年に伝染病研究所を訪れた病理学者フレクスナーの通訳件案内役として接することで、渡米の道が開かれる。血脇に用意してもらったお金で渡米し、フレクスナーのところに押しかけ蛇毒の研究を皮切りに猛烈の論文を書き、世界的に評価されるようになっていく。

黄熱病の研究でアフリカで罹患し、昭和3年にアフリカで死す。黄熱病は細菌ではなくウイルスであったため。

1892年にロシアのイワノフスキーがタバコモザイク病の病原が細菌濾過器を通過しても感染性を失わないことを発見し、細菌よりも微小な存在があるのではないかと提示されたが、細菌に毒性の分子が付着するので原因ではないかなど、確定していなかった。

ウイルスを結晶化できるのは昭和10年。つまり、野口英世が黄熱病の研究をしていた頃には、細菌より微小な存在は疑われていたが、未確定であった。

ということで、野口英世が済生学舎にいたのは明治29年から30年まで在学し、無事、後期試験に受かったということ。

血脇守之助
明治3(1870)年 - 昭和22(1947)年
日本の歯科医師。日本歯科医師会会長。東京歯科大学の創立者の一人。明治後期から昭和初期にかけて日本の近代歯科医療制度の確立に尽力。
しかし、なんといっても野口英世の支援者としての存在が大きい。上京してきた野口の生活費や済生学舎での学費を提供したのも血脇であったし、野口が渡米するにあたって、渡米費用を渡したものの、野口は自分の送別の宴を開き渡米費用を一夜で使い果たしてしまって、血脇が高利貸しから借りたお金で渡米しているぐらいの支援をしている。

渡部鼎
安政5(1858)年 - 昭和7(1932)年
父に漢学を、高島嘉右衛門らから洋学を学び、大学南校(東京大学の前身)に進む。警察医、陸軍軍医試験に合格。西南戦争、日清戦争、日露戦争に出征した。カリフォルニア大学医学部に留学し、卒業後の明治21年(1888年)、サンフランシスコで開業した。
帰国後、会津若松で開業。明治25年に16歳の野口英世の手術をし、明治26年に野口は渡部鼎に入門している。
明治15年に「脚気菌発見」として論文を出しており、野口が英語などの外国語に触れたのも渡部鼎の影響であるが、細菌に興味を持ったのも、同じく渡部鼎の影響は大きかったと思われる。

出典)「済生学舎と長谷川泰」著:唐沢信康さん 他Wiki

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