政治的
言い古されている「健康とお金」
2つの価値で考えてみる
樹木希林さんが亡くなりました。資産形成が上手だとかテレビで話されているのを見たことがあります。不動産の運用をしているのだそうで、いい物件が出ると不動産屋から連絡が入り、現物を見て判断するのだそうです。
結局は、資産を形成しても一族に残すことになり、一族にとってはありがたいことではあるのでしょうけれど、そのことがマイナスになる人生も少なくはないようです。
「2軸で物を考える」というフレーズで「資産」と「健康」で考えてみると、最上なのは「資産形成&健康」になります。ということは最低が「貧乏&不健康」となります。
アベノミクスの成果として少数の「富者」にお金が集まることとなりましたから、反面にはたくさんの「貧者」が生まれることとなってします。
その「貧者」が不幸にして病に倒れれば「貧乏&不健康」が増えるのが今の日本の現状ということになります。
それはそれで同じ人生の時間を使った帰結なので甘受する以外にないわけで他者や制度を恨むのはお門違いだと思います。
で、ここで取り上げたいのが中間層です。かつて、日本には中流という人たちがたくさんいて、その彼らの消費がGDPを支えていた時代もありました。
「金持ち&病気」か「貧乏&健康」のどちらかを選べと言われれば、悩ましいところとなります。
多くの人は、択一ならば、きっと「貧乏&健康」を選ぶのだと思いますが、良寛さんだって最後は大腸を痛めてのたうち回って、
ぬばたまの夜はすがらに糞まりあかし
あからひく昼は厠に走りあへなくに
言に出て言へばやすけし下り腹
まことその身はいや堪へがたし
というような状態で「清貧&病」のなかで死を迎えるわけです。いよいよ臨終が近づくと、貞心尼が、
生き死にの境いはなれて済む身にも
さらぬ別れのあるぞ悲しき
と詠むと、
うらを見せおもてを見せて
散るもみぢ
と口ずさんだといわれているそうです。
死に臨む場合、多くは昏睡から死んでいくことが圧倒的なようですが、テレビのドラマなどでは長いセリフをとうとうと話して、話すだけ話し終わると、ガクッと死にますが、ああいうことは滅多にないようです。蛇足ですが。蛇足に付け加えれば、手術が終わって麻酔が覚めると、男であろうが女であろうが尿道にゴム管を通されて、足元には小便袋が置かれているはずです。
健康か不健康かは、ある程度は生活習慣でカバーできる部分もありますが、病気に関しては、特に癌に関しては多くの場合、遺伝と確率で決まるわけですので抗いようもないわけです。
健康に関しては受け入れるしか無いわけですが、資産の方は、いまから頑張ればゾゾタウンもどきを起こすことだって不可能(宝くじに当たるより不可能ではあるけれど)ではないわけです。
山本周五郎に「虚空遍歴」という小説がありますが、欲を持つことって、向上や達成とか成就などという、いい面のみが強調されますが、同時に欲はつのるので虚空を彷徨うようなものでもあると思います。
「資産と健康」を2軸にしてみると考えやすいのですが、「善悪と健康」で考えてみると、これには脈絡が全く見えなくなります。善良だからといって健康が約束されるわけでもなく、悪辣だからといって不健康なわけでもない(不健康な生活をしているイメージはありますが)。
つまりは、こんなことから考えたとしても「神」などは存在しておらず、限りなく自分の内面においてのみ、存在(想像?)するものでしかなく、単に認識における存在であることは自明のことだと思います。
それは「アマデウス」の最後の方でサリエリがとうとうと申し述べていることでもあります。つまりは、善行をいくら積んだところで、神は何も与えてはくれない。自分が、自分で晴れ晴れとするだけのことでしか無いわけです。
神がいてもいなくても、せめて人のために役に立てるだけのお金と健康を保ちたいわけで、最悪でも、ヒトや社会の迷惑にならないで死ぬことができることを、当面の目標にしようと思うところであります。