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伝記「長谷川泰」《4》

さぼ郎
佐藤尚中は「済衆舎」なる医学校を浅草西鳥越に明治6年開校した。下谷練塀町に医院を開業したが、手狭であり、湯島に3千坪の土地を購入し明治8年に新病院を完成させた。
佐藤尚中
宮内省「大典医」(明治天皇の主治医団長)・文部省「大学大博士」第一号を拝命し、大学東校(現 東京大学医学部の前身)の初代校長として近代医学教育確立に尽力し、西洋医学教育最高学府(東京帝国大学医学部)の礎を固めました。
しかし大喀血をし済衆舎」の教育面を長谷川泰が依頼される。佐藤尚中は明治15年に死去。

長谷川泰は、済生学舎を開学すべく明治9年に学生募集の広告を新聞に出す。場所は、GoogleMapで見てみると現在の順天堂大学学術メディアセンターのところに碑が建っている。

現在の順天堂大学病院の場所は、明治9年当時は「佐藤順天堂医院」となっている。明治25年の地図を見ると、現在の東京医科歯科大学は高等師範学校、女子高等師範学校となっている。

現在のお茶の水が、明治9年ころの風景として周りには樹木がたくさんあり、炭焼の窯が周辺にいくつもあって、炭焼の窯の煙を眺めながら勉学をしたという記録もある。

漱石の「」は明治44年に出されているが、「」の中で夜になると天の川が見えるシーンが書かれており、その当時の日本は、そういう風景の中にあった。

長谷川泰は、明治9年に「東京府病院長」に就任し、明治12年には「東京府癲狂院(てんきょういん)」も兼任した。

佐藤尚中は、大学東校(現在の東大医学部)校長時代に大学東校が一般の人々の医療施設としての役割を担っていないとして東京府が東京府病院」を港区愛宕町(現在の慈恵医大敷地)に設立した。

長谷川泰は3代目院長として明治9年に就任した。貧者救済をの医療を貧しい人には無料で治療をした。西南戦争後のインフレと相次ぐコレラの大流行で経営は逼迫し、明治13年より一般患者の治療はやめて貧民の治療専門の病院となったが、財政悪化により明治14年に閉鎖となった。

また明治11年ころ、明治天皇が脚気になり苦しまれたこともあって、宮内省は脚気病の治療と原因究明及び癲狂院の設立を命じた。

当時の脚気は、漢方では麦芽、麦飯が効果アリとしていたが、西洋医学では伝染病であると認識しており、西洋人に少ないこともあって洋食を治療に与えている。
東京府癲狂院
1879年(明治12年)7月に養育院が東京府神田に移転した際に収容者を調査したところ、120人中68人が精神疾患者であることが判明し、彼らの収容目的として、同年7月に東京府上野の上野恩賜公園に建てられた東京府癲狂院(当時の精神科病院はこの様に呼ばれていた)を設立する。初代院長は東京府病院長長谷川泰である。

相馬事件
旧中村藩主(福島県の相馬のあたり)が統合失調症になり、家族が宮内省に申し出た上で自宅に監禁し、後に東京府癲狂院に入院させる。
それを旧藩士錦織剛清が不当監禁であるとして志賀直哉の祖父、志賀直道らを告発したことから事件として表面化した。
当時(明治12年ころ)の精神科の判断は医者によってまちまちであり、混乱したが、錦織剛清の偏執狂的な行動も批判され、誣告罪で告訴、有罪となる。後藤新平錦織剛清を支持していたため、連座して入獄することとなる。

長與專齋
天保9(1838)年 - 明治35(1902)
安政元(1854)年、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、福澤諭吉の後任
として塾頭となる。
佐藤尚中が大学東校の校長であった所、ドイツ人教師が少数精鋭に切り替える学制を佐藤尚中に相談なく作ったことで佐藤尚中は野に下る。
東校には300人の学生がいたが、学制改革により50人にされてしまったため佐藤尚中は約200人の救済のために「済衆舎」を作った。
佐藤尚中が抜けた大学東校の校長を長谷川泰に託した。が、佐倉順天堂の先輩である相良知安が出獄してきたため、校長の地位を相良知安に譲った。
文部省は個性の強い相良知安に替えて長與專齋を校長職に就ける。
長與專齋は内務卿であった山県有朋と肌が合わず、石黒忠悳を衛生局に招き、その石黒が推薦したのが後藤新平であったが、その後藤が相馬事件に連座すると、長與は後藤を見捨てたが、石黒は後藤新平の才能を見込み、後ろ盾となる。

脚気
日本では平安時代以降、京都の皇族や貴族など上層階級を中心に脚気が発生している。
江戸時代に入ると、玄米に代わって白米を食べる習慣が広まり、上層階級のほか、武士と町人にも脚気が流行した。将軍をはじめとした上層武士に脚気患者が多かった。
江戸を離れると脚気の気がなくなることから「江戸病」とも呼ばれた。江戸で蕎麦がよく食べられるようになった背景の一つとして、蕎麦が脚気の予防に良かったことが挙げられる。
イギリス式の海軍では高木兼寛が、脚気の原因はタンパク質の不足とし、洋食麦飯により脚気の発症率を1%未満にしたが、陸軍始め医学の中心はドイツ流であり、伝染病説が主流であった。
陸軍軍医総監石黒忠悳と次の森鴎外が海軍の米食由来説を批判したため、陸軍は脚気の被害を多く受けた。
陸軍が「白米6合」を止め、麦3割の麦飯兵食を採用したのは、海軍から遅れること30年の大正2年だった。

出典)「済生学舎と長谷川泰」著:唐沢信康さん 他Wiki

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